「『お手本の国』のウソ」からナチスについてメモ


日本で日ごろなにかと「お手本」とされる
フランス(少子化対策)、フィンランド(教育制度)、イギリス(2大政党政治
ニュージーランド(自然保護)、ドイツ(戦後処理)、ギリシア(観光大国)について、
それぞれの国に在住のライターが、その国の「よさ」とされるものの実態を検証する、
という趣旨の本。

最初のフランスの章を担当しているのは、
以下のエントリーで取り上げた本を書いた中島かおりさん。


2010年2月23日に私はこの本について以下のように書いた。

この本には、家事も仕事も子育ても軽やかにこなしながら、なおかつ夫のために、シックで魅力的な大人の女性であり続けるフランスの若い女性たちの姿と、そのためには家事も仕事も子育てもアウトソーシングすることが可能な制度、また、それを許容・奨励する社会の意識が描かれているのだけれど、
フランスの女性は本当に「職業を持って、一人でも育てられる経済力を持った」のだろうか。
アメリカでも日本でも、シングルマザーは社会のいびつさを一身に引き受けさせられているように見えるのだけれど、フランスだけは違うのだろうか。
フランスが如何に子どもを産み育てやすい社会であるかを描き続けた著者が、いよいよ本書の終わりになって、まるで大したことでもないかのように紹介しているのは、3歳児以上が増えているのは、実際には高所得層だ……という統計。
「金持ちの子沢山」へとトレンドは変化しているということか……と最後になって無邪気なつぶやきが追加されているのだけれど、
それならば、それは、本当は「パリの女は産んでいる」のではなくて、「パリでは、金さえあれば、なんてことなく子どもが産み育てられる」ということに過ぎないんじゃないだろうか。

自分がこの本でフランスを少子化対策「お手本の国」として持ち上げておいて、
今度は一生懸命に「そういう面ばかりじゃないんですよ」と否定しているのが可笑しい。

そして、それでもなお、上のエントリーで指摘した、
フランス富裕層の子育てが安価な移民労働力にアウトソーシングされていく構図は
問題視されていない。

その他、それぞれの章なりに面白かったのだけど、
分量の点からか、いずれもちょっと食い足りない感じが残った。

ここではドイツの章(田口理穂)からのみ、
個人的にメモっておきたいことを。

最も印象的だった話として、

・著者の大学時代のゼミでナチスについて議論が行われた際に
「日本の第二次世界大戦でのアジアでの侵略行為は
ナチスユダヤ人迫害と同類のものではないか」との質問に対して
教官が「違う」と即答し、次のように説明したという。

「日本軍は確かにアジアで非道なことをしたが、
それは国家が法律を定めて指令したわけではない。
アウシュビッツなどのような死をもたらす効率的な施設を
法律に基づいて作るといったナチスの所業は他では類を見ないことである」
(p.186)

・その、自分たちを迫害する法律が次々に作られていく国で
ユダヤ人の恐怖がどんなものだったか、
次の一節を読んでいた時にリアルに想像されて、胸が詰まってしまった。

……ナチス政権はユダヤ人に対して「バスや電車に乗ってはいけない」「ユダヤ人でないドイツ人との婚姻や性交禁止」「勤め先を解雇されなければならない」「医師や弁護士などの資格をはく奪」など6年間で250の法律を順次採決し、ユダヤ人の公民権、さらには国籍のはく奪を行う。
(p.180)

 ナチスは女性には自己犠牲の精神を求め、決断権はすべて男性にあるとした。女性は家庭にというキャンペーンを張り、結婚を機に女性が仕事をやめると、1000帝国マルク分の商品券を夫に貸し付けた。そして子どもがひとり生まれるたびに250帝国マルク分を帳消しにしたため、4人産むと返却しなくてよい。これにより女性を家庭に戻すとともに、男性の雇用を確保した。1941年に避妊具の使用を禁止、1943年より中絶者は死刑とする一方、ナチスが列島州とみなす人には中絶が強要された。
(p.182)

後ろの部分を読むと、
この匂い、すでにまた漂い始めているような気もする。

・著者は、ナチスの歴史が大きなトラウマとタブーを残しているドイツの姿を描きながら、
全てをナチスのせいにしてドイツ政府や国民が自らを免罪してきたことを指摘し、
最近のネオナチの台頭と、さらに深刻なのが実はイスラムへの差別の広がりだと懸念しつつも、
ナチスの歴史を見据えて、忘れず、歴史を引き受け、その反省に立って生きようとする
ドイツの努力を紹介している。

その1つで印象的だったのが「つまずきの石」
森岡正博氏が著書で紹介していた「33個目の石」を思い出しました)

・戦後処理についての指針となった1985年のヴァイツゼッカー大統領の演説。

「私たちはみな、罪があるにしろないにしろ、年老いていようと若くあろうと、
過去を引き受けなければならない。(中略)
今の若者には、当時起こったことについて責任はない。
しかし歴史の中でそれを発端とすることについては、責任がある」

罪はナチスにあるが、
罪はなくとも責任を引き受けることはできる、という姿勢。

これには考えさせられることが多い。




上記08年のエントリーで書いたことを再び思う。

(「第三帝国安楽死」の)後書きの分析によれば、障害者の大規模な抹殺を許した社会背景の一つに、第一次大戦の敗戦によるドイツの経済不況が上げられています。
不況の中で、社会的に役に立たない精神障害者のために国家の乏しい予算をさくのはおかしい、という論調がすでに社会には蔓延し、それがナチスの暴挙に無言の承認を与えていたのだというのです。
過酷な弱肉強食であるグローバル経済がどんどんコントロール不能状態となる中、リベラルな生命倫理がもっともらしく説く「限られた資源を最大多数の最大幸福のために」というスローガンが、そのまま「社会の役に立たないものには資源をまわす必要はない」という意識となって世界に蔓延していくかのように思える今の世の中をどうしても考えてしまう。
そこへ、将来の希望を先取りして煽り立てる科学とテクノロジーがさらに人間の欲望を肥大化させていくという悪循環が付け加えられている分、今のほうが余計に救いのない状況なのかもしれないし……。