くつした泥棒

ミュウを送っていって、
詰め所で看護科の男性職員Aさんとしゃべっていたら、

その人が急に何かを思い出して、一人で大笑いしながら
「この前、ミュウちゃんが思わず『ど』って言いそうになってね~」。

これまで重症心身障害者も入所が認められていたので(この春から制度が変わるが)
ミュウが暮らしている重症心身障害児施設にも様々な年齢の人がいる。

ミュウとちょうど40歳ちがうBさん(男性)は
身体障害と知的障害が重複しているが、その他の入所者に比べるとさほど重度ではない。
言語障害もあるが、慣れれば全く理解できないことはない。

容貌がたいそう渋く「無口で気難しい大工の棟梁」タイプであるうえに、
しゃべる時にはなぜか必ず怒ったような口調で怒鳴るので
ちゃんと知り合う前だと、かなり本気で怖い。

が、実は毎日どこかに赤いものを身につけないと機嫌が悪いとか
若い女性職員にはめっぽう甘いなど、可愛げのあるオモロイ人である。

入所した時からミュウのことをずいぶん可愛がってくれて、
小さい頃はよく抱っこしてくれていた。

ミュウが帰省して夕食時にいないと
「“ちっこいの”はどうした?」と、よくスタッフに聞いてくれるらしい。

デイルームでミュウが「番組替えて~」とか
「DVD見たい~」などとスタッフを相手にワガママを言っているのを
Bさんは時々、遠くから目を細めて見ていたりもする。

私たちがミュウを迎えに行くと、
車いすに乗ったBさんと玄関あたりや廊下で会うことがあり、そんな時Bさんは、
「ぎゃっじっ!」と私たちに向けて大声で激しく怒鳴る。

親切に「ミュウなら、あっちにいるよ!」と
指差しながら教えてくれるんである。

とはいえ、ミュウが4年前に成人を祝ってもらった時に
一緒に還暦を祝ってもらったBさんは、さすがに最近は弱ってきて、
デイルームでみんなと一緒に過ごすことが多くなってきた。

そんなBさんが
知的な刺激の不足からか年齢ゆえか、両方からか、
時々ぼ~っとするようになったことを
看護科の幹部職員であるAさんは心配しているのらしい。

ぼ~っと停止状態になっているBさんに気付くと、
そっと近付いていって、靴下をひっぱってやるのだそうだ。

ツンツンと引っ張りながら靴下を少しずつ脱がしていくと、
Bさんは、はっと、いつものBさんに戻り、
抵抗しつつ、「ごらぁ、どどぼー!」と大声で怒鳴る。

そういう2人のやりとりが繰り返されるのを、
ミュウはいつも興味しんしんで眺めているのらしい。

ついには、
ぼ~っとしているBさんに気付いたAさんが、
こそ~っと近づいていくのを見ると、

これから何が起こるかを予想して
ミュウの方が先に胸を弾ませてしまった。

目は、Bさんの脚に伸びるAさんの手に釘付けで
ミュウはワクワクを募らせていく。

Aさんもミュウのそんな視線を意識しながら、
ついにBさんの靴下の先を掴んだ……その瞬間、

ミュウは募る期待がピークに達し、
思わず「どろぼー!」と……

言葉を持たないミュウが、
その瞬間、本当に「ど」と言いそうだったのだという。

いや~、もうちょっとでミュウちゃんが「ど」と言うところでした。
本当に言うかと思いましたよ~。

Aさんが大笑いしながら語ってくれる。

ねー、ミュウちゃん、
「どろぼー!」って、思わず言ったんだよね~。

ミュウはそれにニヤニヤ顔で応えていた。


誰ひとりとして自ら望んでそこで暮らしているわけではない施設の、
なんてことない普通の生活の一場面――。