「介護」「障害のある子どもの親であること」を巡るツイート 2: 2012年1月13日~15日

ブログでは、ちょっと書きづらかった親として介護者としてのナマの思いが
なぜかツイッターではさらさらと書けるのが不思議です。

たぶん、ブログでは一定の整理を経てまとまったことしかエントリーにできないけれど
ツイッターでは、未整理の断片をそのままつぶやけるからだろうと思います。

そうやって言葉になった断片が繋がって、
自分の中に一つの方向を作ってくれる感じもあって、
今のところ、とても興味深く使っています。

ブログを始めてずっと、私はモノを知らないので
どのエントリーも私自身がものを考えるプロセスの一点だと考えてきましたが、
一つのエントリーを書くためにも一定のプロセスを経ているわけで、
ツイッターはそちらのプロセスのさなかにある
思いや考えの断片を言葉にできるのだろうな、と。

そのままにしておくとツイートの川の中に沈んでしまうので、
主として、私自身のメモとして、折に触れてエントリーに流れごとに拾っておこう、と。

以下、ほとんどは複数の方とのやり取りの中でツイートしたことですが、
相手の方のツイートを無断でコピペするのははばかられるし
私自身が考えたことの繋がりはこちらの発言だけでも見えると思うので
私の側のツイートのみで。

やりとりについて興味がおありの方はツイッターでご確認ください。
アカウントはspitzibaraです。

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私自身は、自分の中に相反する強い慾望があって、どちらにも別の自責が予測され自分でダブルバインド状態になる時が一番苦しい気がします。一方がミュウ以外に関わっていると倍加しますね。

責めてくるのは自分が内在化させてしまっている誰かの「べき」の声だと思う。それから、純粋に「こうしてやりたい」という親としての思いと、してやれない悔しさがすぐに「私さえ頑張ればしてやれたはずだったんでは」と自責に転じる。そんなこんな。私も考えてみます。

そう、そう。ホンネはいつも支離滅裂で、自分の中でも相反していたり矛盾しているので、理路整然と説明するというのが無理なんでしょうね。それに、いい年こいた大人が自分の弱さや痛みを語るのはそれ自体が痛いことだから、ジョークにしたり怒りの力に乗せないと語れない。

本当は誰かを責めたいんだけどできない時に、ぐるっと一回りひねくれた形に転じて自分を責める、という心理ってありますよね。すごく苦しい時にはそれ。すごく消耗的で下降らせん状にグルグルと連鎖する。うつ病になる時の感じにとても近い感じも。自責にもある種の快感が。

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おはようございます。昨日あれから湯船の中で気付き、PS書こうと思ったけど寝られなくなるので止めました。私はいわゆるACなので、それゆえという面があるんだろうとも思います。(起きても覚えていられたじゃないか。まだいけるぞ、自分)

「障害のある子どもの介護者でもある親」という位置に立っている人は同時に抑圧された者であり、抑圧された者の代弁者・保護者でもあり、抑圧する者でもありうる。(つづく)

そのことの内に、ACの問題にもつながり得る親子の関係性の問題や、社会が女性をどのように遇してきたかという問題や、社会が障害児・者をどのように遇してきたかという問題が連環して、巡り巡っているんじゃないのかなぁ……という気がしている。

↑すみません。どうしてもツイートしたくなって、みっともないんだけど自分のブログ・エントリーから引っ張ってきました。http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/62226979.html

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信田氏のアダルトチルドレンの定義は「現在の自分の生きづらさが親との関係に起因すると認めたひと」(「愛しすぎる家族が壊れる時」p.73)。「認めた」というところがキモなんだと思う。(つづく)

ただ「そう思うひと」なのではなくて、自分にとって苦しくてたまらなくて、だからずっと否認してきた事実とついに正面から向き合って、事実を事実として受け止める勇気を持ち、その苦しい事実を「引き受け」て生きていこうとしている人、なのだろうと思う。(つづく)

だから「認める」までが長く苦しいのではあるけれど、そのように「認める」ことは到達点というよりもスタートであり、それならACは誤解されているように「すべてを親のせいにして甘えている人」ではなく、むしろ、

そこから抜け出すためのスタートラインに自覚的に立とうとする人なのだ――。そんなふうに考えて、自分の中でAC概念を整理することができた。。。。と、一応、カミングアウトしたからには確認しておきたかった。

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ACとか共依存などの概念は、「自ら自覚的にそこに立つことを引き受けた」人にとってのみ有効で、当人の外側からそれらを押し付けることは被害者を責めることにしかならない……ということでは? 昨日からのぐるぐるで、一つこんなふうに考えてみた。