「介護」「障害のある子どもを持つ親であること」を巡るツイート 1: 2012年1月9日―10日

1月9日

前に某シンポで、鷲田清一氏が「かつては町内で介護の支え合いがあった」みたいなことを言われ、春日キスヨ氏が「でも、その支え合いを負わされていたのは女だった」と突っ込んだら、鷲田氏が「でも介護は誰かがしなければならない」と言った。忘れられない。

介護を語り論じる多くの男性が内心、介護は自分以外の「誰か」がするものだと思って語り論じている。本当のところ、介護を論じさせてもらえるだけの「業 績」があるなら、それは子どもの主たる養育者であることも誰かの主たる介護者であることも免れてきた人である確率が高い。男性であれ女性であれ。

某シンポの開始前、パネラーの一人がもう一人に「母親が倒れてね。介護については専門家のつもりだったけど、自分のことになるとこんなに大変だとは思わなかったよ。家内がノイローゼ状態なんだ」と話していた。それでも、その人自身は飛行機でやって来てシンポで介護を論じる。その大変さについて。

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ミュウのオムツ交換も着替えもトランスファーも歯磨きも寝がえりも、父と母の4つの手によって、まるで「2つの身体と4つの手を持った1人の人」のよう に、なめらかに流れていく。ミュウ自身の呼吸がその流れに沿って、3人の無言のリズムが刻まれていく。それが我が家の暮らしのリズム。

一人の人のように働く4本の手に身をゆだね呼吸を合わせつつ、ミュウも気が向くと腰を上げて協力したり(タイミングちゃんと計ってる)、シャツやオムツを 取って手わたしてくれる。気が向くと、渡すと見せて、あらぬ方に放り投げては喜ぶ。「こら、ミュウ」「ゲヒヒヒッ」日常のリズムが”ぴょん”。

3つの息と4つの手が一つに合わさって、我が家の日常が営まれていく。そうと意識されることもないほど、なめらかに。それに気付いたのは、そんなことを24年を超えて繰り返してきて、なぜか今日。

でもね。この上ないコーディネーションを見せてよく働く「2つの身体と4つの手」も、3つの身体のどこかに非日常が起こるとね……。それに、なぜだろう、 特にミュウの体調が良くない週末は、生活そのものも介護もいつも通りに流れたのに、4本の手を持つ人の身体の疲れがものすごく酷い。

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私はそういうところに足を置き、そういうところからモノを見て、モノを考えようとする時、正直言って、「実践の倫理」がどっちに向いていようと知ったことじゃない、という思いはある。

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介護を介したミュウと母親との密接なつながりの中には、ちょっと人目に触れるのを憚るようなやりとりの部分がある。ちょっと表現しづらくて誤解を招くとま ずいけど、たぶん夫婦のセックスのような何か、とてもプライベートで隠微なもの。性的なものがあるわけではなく、その親密さの性格が。

父親とミュウの間にもそれに似たものはあるような気がする。全面的に身をゆだねている者とゆだねられている者の親密さで起こることなのか、親子だからなの かは分からない。ただ全面的に身体をゆだねゆだねられることそのものに、なにか豊饒なものがある感じはある。危うさでもあるんだろうけど。



1月10日


昨夜、眠りに落ちる寸前に気になったんだけれど、ミュウの介護についての昨夜の一連のツイッター、ずっと在宅介護している人や一人で介護を担っている人には不快だったかもしれない。

介護に限らず、どの問題でもそうだと思うけど「いま現にそこで一番苦しんでいる人」の声は世の中には出回らない。そういう人には世の中に向かって声を上げ るだけの余裕なんかないから。そして世の中で一番大きな声を張り上げている人たちには、そういう人の存在への想像力も興味もない。