「介護」「障害のある子どもの親であること」を巡るツイート 3: 2012年1月13日~15日

そのころ、私はなぜかミュウが誘拐された夢を見ており、夢の中でパニックしてわめきまくっていたら、いきなり隣の布団から伸びてきた、ひやっこい手に顔面を襲撃されて飛び起きたり……しておりました。

前からずっと頭にぼんやりあったことが、何度も繰り返される自分の夢のパターンを改めて思い、それが「障害のある子どもを持つ親の原罪意識」という言葉に収束してきた気がする。ブログにそのうち。
 
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「私は私らしい障害児の親でいい」という本を書いて数年後に、ミュウが文字を読んで理解することができる子だったら、私はこの本は書けなかったのだ、ということに気付いた。そのことの中に考えるべき大事なことがあるような気がする。

親が子どもとの関係における自分の苦しさを語る言葉は、語られた瞬間から、すべて、あのイヤラシイ「積み木崩し」になるのだ、と思う。それに対して何も言えない立場に子どもを置きざりにしたままの、強い者の身勝手な自己正当化。

同時に、介護者が介護者支援を訴えることの難しさの一つが、そういうことの中にあるような気もする。弱い側にいる者を傷つけるのが分かっているなら、そし てその相手を愛しているなら、強い側にいる者は自分の苦しみを語る言葉を飲み込むことを選ぶ。だから同じ立場の「内輪」でしか語られなくなる?

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いろいろあるというのは多少は承知しているのですが、ただ、だから子どもへの支援や介護者支援の必要が否定されるということではないと思うんですよ。すごく不用意なものの言い方なんだろうとは思うんですけど、(つづく)

私としては、介護者支援が充実することによって親や家族が代弁しなくてもすむ方向というのも探れるのでは、ということを考えてみたいです。

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ここの話題(家族は「当事者」に含めるべきではない、か)、上野先生のニーズが一次だとか二次だとかいうこととも関わってくると感じていて、言いたいこといっぱいあるんですけど、微妙な部分が多いので、整理できてからまた絡ませてください。

ありがとうございます。私は「ケアの社会学」まで考えたこともなくて、今のところ「障害については家族は『当事者』ではないけど、介護に関しては『当事者』に含めてほしい」。とはいえ、そこに足を下ろしかねてグルグルも。みなさんの議論から学びつつ考えたいです。

介護故に受診できない難しさとか、独立した患者として見ることの必要を言ってくださっているの、ありがたいです。心理的にも自分のことは後回しになります。昨日の奈良の82歳の母親も車椅子だったとか。

介護者がうつ病になったら、その人は「うつ病の介護者」ではなく「うつ病患者」としてその人自身が上野先生の言う一次ニーズの持ち主とみなされるべきでは、と私は思うのですが、うまく言えないので出直します。

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この点(精神障害者の介護者がうつ病になった場合の主治医は本人と別であるべきか)は、やっぱりケースごとの判断じゃないかと思うのですが、ただし、そこでも、医療と福祉の両方の関係者に、介護される人とする人の間には時に非常に深刻な利益と権利の相克があるんだということをきちんと認識してもらうことは大切か、と。

それから介護される本人のニーズがきちんと満たされることも、大事な介護者支援策だと思います。介護者が病気やけがで一時的に介護できなくなったような緊急時も含めて。


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もうちょっと整理できたら言いたいのは、それぞれ自分のニーズとか権利の保障を求めるべき相手は、介護される・する関係内の相互ではないはずだ、ということなんですけど……もうちょっと考えます。

ニーズもなんだけど、権利に優先順位……というのがずっと引っかかっている。