Ouellette「生命倫理と障害」:人工内耳と“Ashley療法”について 1

Oulletteの“Bioethics and Disability”の第4章「児童期」で取り上げられているのは
「Lee Larsonの息子たちの事件」と「アシュリー事件」の2つ。

前者は、
聴覚障害の子ども達が自己決定できない内からの、
親の判断による人工内耳埋め込み手術のケース。

09年か10年に、ある研究者の方と話をした時に、
アシュリー事件の議論は人工内耳の問題と通ずるものがある、というお話しで
その方が簡潔に解説してくださった人工内耳をめぐる議論が大変興味深かったので、

親の判断での障害児への侵襲的医療介入のケースとして
この2つの“療法”がここで取り上げられていることには、
なるほど~……と深く納得するものがあった。

とはいえ、私はまだこの問題については何も知らなくて、ちょっと荷が重いので
Lee Larsonの息子たちのケースについて書かれているパートは、今回はパス。
まだ読んでいません。

人工内耳の問題については ⇒ http://www.arsvi.com/d/ci.htm


Ashley事件については、まず事件の概要説明のパートで
前に論文を読んだ時と同じく、Oulletteの事実認識の甘さに、ちょっとイラつく。

検討したのが外部の人間を含めた常設の倫理委だと思い込んでいるし
ホルモン療法の期間を1年半だと書いているし、
Diekemaの詐術に、まるっきりたぶらかされている。

(いつも思うのだけど、学者さんは、ある事件について云々するなら、
基本的な事実関係を把握する作業を、まずしっかりやってほしい。
事実関係を正しく把握するために、資料をもっと丁寧にちゃんと読んでほしい。
学者さんたちは論文を書くことが仕事で、それを主目的にして資料を読むので
つい資料の読み方が、自分が言いたいことを論証するための材料探しに終わる
……ということはないんだろうか。

そうしてDiekemaやFostのように学問的誠実を投げ捨てたワケあり学者の術中にハマり
操作された情報を事実と信じて、まんまと鼻づら引き回されてしまったら、
いくら批判・反論しているつもりでも、その的は微妙に外れて矛先が鈍る)

なので、事件の概要でOulletteが書いていることは、ここでは省略。

「障害者コミュニティの見解」つまり批判についても、
当ブログでリアルタイムに拾ってきた通りなので、省略。

生命倫理学の見解」でも、
内容的には大筋で当ブログが拾って来たのと同じだけれど、
議論の流れの整理の仕方が、とても興味深い。

Oulletteは大筋として
以下のように生命倫理学者間の議論の流れを捉えている。

真っ先に声を上げたのはお馴染みArt Caplanで、
当初はCaplanに続く学者の批判が多かったが、
「時が経ち、このケースが更に深く分析されるにつれて」
両親と医師や倫理委の判断を支持する声が広がり始めた。

特に大きく流れを変えたのは
影響力の大きなHastings Center Reportに
LiaoとSavulescuらが書いた成長抑制容認論文が掲載されたことだった。

不思議な“アシュリー療法”エッセイと、その著者たち 1(2007/9/27)
不思議な“アシュリー療法”エッセイと、その著者たち 2(2007/9/28)

(Liaoらが権威ある雑誌で外科的介入との間に線引きをしたことが
“アシュリー療法”から特に成長抑制だけを取り出して容認する流れを作った……
というのが、Oulletteの捉え方なのですね。
DiekemaとFostなど関係者らが事件の真相の隠ぺいのために
意図的にそういう議論の流れを誘導した、というのではなく)

もっとも、06年の当初論文に既に潜んでいる隠ぺい工作の胡散臭さに
多少なりとも気づいてくれた唯一の学者さんだと私が推測しているJohn Lantosが、
乳房芽切除の隠ぺいや、具体的データの欠落、エビデンスを書いた論理展開などを
鋭く指摘したことはOulletteも書いたうえで、

Lantosの疑問には容認論者の誰も応えられなかったにも拘らず、生命倫理学者の間には
成長抑制療法については倫理的に容認可能とのコンセンサスができていった、
その根拠は「親の決定権」と「価値観の中立性」だった、と整理。


親の決定権と価値観の中立をめぐる議論の引用は
Lanie Friedman Ross, Merle Spriggs, Peter Singer, Hilde Lindermann 。

こうした概観を経て、この章の「考察」でもOulletteは、

生命倫理学は医療のバイアスにとりこまれてしまって
医療の在り方や考え方を問い直す学問としての役割を果たしていない、とズバリと指摘。

A事件での障害者らの批判に沿った主張を展開し、
3章と同じく、両者の和解に向けた会話を前提に
まず生命倫理学は医療の主流的な価値観を問いなおせと説いている。

詳細は次のエントリーで。