美しい文章 2: 須賀敦子「ヴェネツィアの宿」

暗い話題ばっかり拾う自分のブログに倦んで、毒消しのための、ほんの試しとして
「美しい文章 1」というエントリーを初めて書いてみた時に、

藤沢周平さんの小説以外には、
あまり文章そのものを美しいと感じることがないと書いたのだけど、

数日前に、ふいに、もう一人いたことを思い出した。

思い出すと読みたくなって、
須賀敦子さんの文庫を引っ張り出してきた。

私の感触では、
藤沢周平さんの文章が穏やかで滋味豊かな春の空気とか景色なら、
須賀敦子さんは凛と清冽に澄み切った秋の空気……かな。

こちらに教養が足りないので、
いつも十分についていけていない恨みはあるのだけど、
ヴェネツィアの宿」の冒頭からしばし、いきなり心奪われるのは、

シンポジウムで訪れたヴェネツィアの夜に、
疲れた体でやっと宿に辿り着いた時に、
宿の向かいのフェニーチェ劇場創立200年記念ガラコンサートに遭遇する場面。

……こんなもの、さっき通ったときもあったかしら、と思いながら歩いていくと、ちょうど星(の形をした、道をまたいでぶら下がったネオンサイン)の下をくぐったあたりで、いきなり湧きあがるようなオーケストラのひびきが聞こえた。この時間にいったいどういうことだろう、とちょっと腹立たしい思いがあたまをよぎったとたん、私自身がなんともふしぎな光景のなかに足を踏みいれていた。
目のまえに、スポットライトで立体的に照らし出されたフェニーチェ劇場の建物が、暗い夜の色を背に、ぽっかりと浮かんでいた。そして、建物を照らしている光のなかに、一見して旅行者とわかる、それでいて、てんでばらばらな男女の群れが、まるで英雄の帰還を待ちあぐむ舞台の上の群衆のように、広場ともいえない狭い空間のあちこち、劇場のまえのゆるい傾斜の石段や、反対側の、これも道から一段高くなった屋根つきの通路に、うねりひびく音の波をそれぞれが胸に抱え込むようにして地面に腰をおろしていた。あっと思ったつぎの瞬間、オーケストラの音を縫うようにして、澄んだ力づよいソプラノが空に舞った。何度も聴いたことのある旋律なのだけれど、オペラに不案内な私には、どの作品のどのアリアなのかは、わからない。劇場に入れなかった人たちのために、広場のどこかにしつらえられたスピーカーから、舞台の音が中継されているのだとはっきり理解するまで、たぶん何秒か過ぎたと思う。それほどすべてが意表をついていて、不思議な幻の世界にひき込まれたようだった。
(中略)
昼間の疲れに押し倒されるようにして、すこしとろとろとしたようだった。ふいにベッドからほうりだされるような、からだが、無数の小さな手にささえられて宙に浮いたような感覚にゆすぶられて目がさめた。鐘。近くの教会の鐘が、夜中のヴェネツィアにむかってなにかを声高に告げている。時計を見ると一二時だった。とはいっても、それは、鐘楼の時計が、ただ、昨日から今日への境目としての時間を告げる、というふうではなくて、二○○年まえのこの夜、輝かしい彼らの音楽史の一ページとして、はじめて自分たちの歌劇場をもつことになったヴェネツィア市民の狂喜の時間をここでもういちどかみしめているような、まるでうつつをぬかしたような鳴りかただった。そして、その鐘の音を、冬の夜、北国の森を駆けぬけるあらしのような拍手が追いかけた。建物の内側の拍手と外側の拍手が重なりあって、家々の壁に、塔に、またそれらのかげに隠れた幾百の運河に、しずかな谺をよびおこすのを、私はもうひとつの音楽会のように、白いシーツのなかでじっと目をとじて聴いていた。
河出文庫須賀敦子全集」第2巻 P.15-20.


涙がにじんでしまった。

身体だけじゃなくて心までちょっと疲れているのかな、と感じる時に、
ビタミン剤よりも効くのは、こんな美しい音楽のような文章だったりする。