クルーザン判決: 経管栄養は「一定の侵襲と拘束を伴うため」その他の治療と同じ

1990年のナンシー・クルーザン事件とその判決については、
米小児科学会倫理委の「栄養と水分の差し控え」ガイドライン(2009)において
成人患者の場合に栄養と水分の供給をその他の医療と変わらないと判断する
法的根拠として言及されていました。

Alicia Quelletteの新刊「生命倫理と障害:障害者に配慮ある生命倫理を目指して」を読んでいたら、
第2章のあたりで、そのクルーザン判決について書かれていたので、資料として。

まずびっくりしたのは、クルーザン判決を決定づけた最高裁判事って、
何年か前に引退する際に後任人事がモメまくって
連日ニュースになったのが記憶に残っている
あの女性判事のO’Connorさんだった。

自分がこういう問題に興味を持つ以前の出来事で
リアルタイムの報道に詳しく触れていないためか、クルーザン事件も
70年代のカレン・クインラン事件とか2005年のシャイボ事件と一緒くたに、
「過去の事件」「教科書の中の出来事」みたいに感じているところがあって、

時折、こんなふうに、
「あのO’Connorさんだったのかぁ……」などと
自分がリアルタイムで触れたニュースとの繋がりに触れると、
それらの事件の現在性が妙にナマナマしく感じられてきたりする。

で、Quelletteの著書に引用されているのが
5-4でクルーザン訴訟の最高裁判決を決定づけたO’Connor判事が
特に「栄養と水分はその他医療と同じ」とする自分の見解を明確に書いている個所。

the liberty guaranteed by the Due Process Clause must protect, if it protects anything, an individual’s deeply personal decision to reject medical treatment, including the artificial delivery of food and water.

合衆国憲法のデュー・プロセス条項によって保障された自由が、なにがしかのものを保護するとするならば、それは食物と水分の人工的な供給を含めた治療を拒否するという、本人個々の非常にプライベートな決定を保護しなければならない。

さらに米国医師会の倫理見解とHastings Centerのガイドラインを引用した上で、

artificial feeding cannot readily be distinguished from other forms of medical treatment. Whether or not the techniques used to pass food and water into the patient’s alimentary tract are termed ‘medical treatment,’ it is clear they all involve some degree of intrusion and restraint. Feeding a patient by means of a nasogastric tube requires a physician to pass a long flexible tube through the patient’s nose, throat and esophagus and into the stomach…..Requiring a competent adult to endure such procedures against her will burdens the patient’s liberty, dignity, and freedom to determine the course of her own treatment.

人口栄養はその他の形態の治療と容易には区別できない。食物と水分を患者の消化管に入れる技術を「治療」と呼ぶかどうかはともかく、人口栄養は一定程度の侵襲と拘束を伴う。鼻から胃に管を入れて栄養と水分を供給するには、医師が患者の鼻から長く柔らかいチューブを入れ、喉、食道を通過して胃に至らしめる……意思決定能力のある患者に自分の意思に反してこのような処置に耐えよと求めるのは、患者の自由と尊厳、治療ついて自己決定する自由を脅かすものである。

引用はいずれも、Quelletteの著書のP.42。


たったこれだけから断定的なことは何も言えないとは思うけれど、

たったこれだけを読むと、
ものすごく複雑な気分で、わわわっと頭に浮かんでくることがあれこれあって、

うぅ~ん……。

な~んか、引っかかるんだけど、
うまく整理できない。