Ouellette論文(09) 4: 「所有しデザインする親」から「子の権利を信託された親」へ

前のエントリーから続く)

昨今は日本で大人気のMichael Sandel教授も
この論文でとりあげられた養女の目の整形手術について論じているらしく
Ouelletteもサンデルを援用していますが、

子ども自身のニーズとは無関係に、親自身の目的によって
子どもの身体に手を加えて作り変えようとする親のことを
サンデルはこう呼びます。

the designing parents――。
(子をデザインする親)

そうした親を巡ってサンデルの言わんとすることは
さらにWilliam Mayという学者からの引用によって示されており、

親になるとは以下のことを教えられることだとして

「子どもを生まれたそのままに贈り物、ギフトとして尊重すること。
デザインの対象や、意思によって作り出すものや、我々の野心の道具としてではなく」

「親の愛とは、
子どもがたまたま持ち合せている性能や特性によるのではなく
ありのままの子どもを受け入れることによるもの」

その上で、子どもの発達を促し、健康に留意し、必要な治療を受けさせることと
「デザインする」こととの区別を説くサンデルの説を解説した上で、

Ouelletteは、再びParham判決を引き、
医療における意思決定での親の決定権は
「子どものニーズを満たす親の義務」に基づくものであり、
「子どもの身体に対する所有権」に基づくものではない、と説いて
臨床現場の実態がそうなっていないことの問題を再確認します。

この後、では、どういうモデルがよいのかの検討に入っていくのですが、
親の義務に基づく権限を尊重しつつ、それがフリー・ハンドの権利ではないことを明確にするため、
Ouelletteが提言するのは

「子どもの権利を信託された者」としての親と、その義務と権限

Barbara Bennett Woodhouse、 Joel Feinberg, Elizabeth and Robert Scottによる
それぞれ3つの「信託者モデル」を解説した上で、

3つのモデルに共通しているのは
親の権限ではなく、子どもの福祉を増進することに目的がおかれている点。
子を親の所有物としてではなく、未成熟であっても権利を持ったひとりの人とみなしている点。
世話をされニーズを満たされることに対する子どもの基本的な権利を確認している点。

(Feinbergは、
子どもが将来成人した時に行使すべき権利をめぐって an open future という概念を使っている)

これらの原則によって子どもの権利と尊厳を守りつつ、
3つのモデルの利点を生かし、不備を補いながら、
同様の新たなモデルの構築を模索しているのがこの論文の最後の章で、

財産の信託者の義務と責務と、裁判所が関与すべき決定の範囲、
違法行為とされる範囲(自己取引と義務違反)などを詳細に参照しながら、
それを親と子の関係に当てはめて、そのモデルを検討していくのですが、

そうすると、
権限の範囲は信託者の基本的義務(慎重、忠実、公正)に即して、
あくまでも子どもの福祉と健康の増進、未来の選択と機会の保存のために行使される範囲。
それを越える決定をする場合には裁判所の審査を必要とする。

ただし基本は presumptive deference (義務に従っているものとの推定・前提)。
信託の濫用の場合のみ、裁判所または法定信託者の判断を必要とする。

ウーレットは、要するに
親が子どもの健康や安全を脅かす決定をする際には、
子どもの福祉と未来の選択肢保存という総合的な利益との関係で測られる、

医療の場合、健康の通常範囲での「改善」を目的とすることは認められるが、
「大きな改善」には第3者の慎重な検討が必要、というのですが、

その第3者の検討が、presumptive deference を前提とし、利益リスク考量によるなら、
前半で著者自身が疑義を呈していた医療法の親の決定権重視のヒエラルキー・モデルと、
事実上、中身は同じことになってしまうのでは?

子どもを親の財産のようにみなすヒエラルキー・モデルへのアンチとして提示されたはずの
比喩としての「信託者」とされたファインバーグらのモデルに対して、
文字通り「財産」をめぐる信託者を規制する信託法を参照したために、
自分自身が子どもを親の財産のようにみなすという、
現在の医療法と同じ過ちを犯してしまったのでは?

信託法における自己取引と利益相反にあたる可能性が
子どもの医療をめぐる意思決定に伺われる際にウーレットが必要とする「何らかの中立な第三者」に
誰がなるべきかという点にしても、ウーレットはぐらついているように思えます。

Parham訴訟を引いて、
医療については専門知識を欠いた裁判官よりも医療職が判断するのがふさわしいとして、
例えば組織内審査委員会(IRB)のような専門家組織に触れながら、

一方では
「中立の第三者」として、医師、倫理委員会、裁判所を挙げています。

これらを4つの事例に適用すると、
①の二重まぶたにする手術は自己取引と利益相反で認められない。
②成長ホルモンは、個別事例の利益リスク検討によっては第三者が認める可能性もある。
③12歳への脂肪吸引や外科手術での脂肪切除は、義務違反。
④Ashleyに行われた介入は「大きな改善」に当たり、親の「自己取引」の懸念もあることから、
 第3者の検討を必要とするが、介護の問題など背景が複雑なので
 第3者がアシュリーのケースと同じ判断をする可能性もある。

最後のあたりで、現実問題としては
信託法の考え方を適用しても医療の問題で現状はほとんど変わらないとも書いていますが、

上記①~④の分析でも
ウーレット自身が利益とリスク検討を基本にした考察をしており、

しかし彼女の考える「利益」と「リスク」が
これらの事例に関わった医師らの捉え方では異なっていたという点が、
そもそもの問題の要諦なのであり、

アシュリー事件でも表向きの手続きはウーレットがここで提唱してる通りで、
その第3者である倫理委が「総体としてアシュリーへの利益」と結論したのだから、

ウーレットはこの論文で、
2008年論文よりもさらに慎重な親の権限への規制を考えようとして、
結局は前の論文の結論に舞い戻ってしまった、という印象。

一番肝心のところで、
一気に尻すぼみになって終わってしまう感じがして、
最後は私にはいまひとつ説得力が無いように思えましたが、

法により規制するということの限界がここに透けて見えているのかもしれません。

つまり、制度や手続きによって規制することが非常に難しいのは、
これが医療法の問題でも、意思決定のプロセスの問題でもなく、
医療や社会が親の決定権や障害者をどのようにみなしているかという
価値観やそこに含まれる差別といった問題だからなのでは?

Ouelletteは、こうした考えをその後、著書にまとめたようですから、
そちらに期待して、読んでみたいと思います。

いずれにせよ、今の米国の医療において、
親子の関係を上下の所有関係と捉える旧来のヒエラルキー型家族モデルの中で
子の所有者としての親の権限をフリー・ハンドで認め、
それが「親の権利」と受け止められてしまうことへの疑義と、

親は子の所有者ではなく、
子どもが一人の人として持った権利を大人になって自分で行使するまでの間、
その権利を信託されているに過ぎないと捉えて、医療においても、
その範囲での意思決定の“権限”のみに制約する枠組みが必要……との提言は、
非常に大きな意味のあると思いました。

改めて、Ashley事件で Norman Fostやトランスヒューマ二ストらが
「親の決定権」を振りかざして批判を封じようと試みたこと、

07年の論争で、一般の世論の中にも、
「実際に介護していない者が口を出すな」と
介護をしている事実が全権白紙委任に結び付いてしまったことなどを振り返り、

これは必要な議論だ、と痛感します。

(シリーズ 完)


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