Ouellette論文(09) 3: 法の「非服従原則」

前のエントリーから続く)


Ouelletteによると、
法における「非服従の原則」とは、

ある人の自己決定の権利は
他者の生命や身体を自分の目的に服従させる権利までを含むものではない、ということ。

クルーザン判決においても
意思決定能力の有無を問わず患者本人にしか決定できないことがあると確認されている。

(これ、日本語で言う一身専属事項ということですね)

したがって、子どもが成人して後に自分でするべき決定まで
子どもに代わって決定し、その身体に手を加える権利が
親の決定権に含まれると考えるのは、道徳的にも法的にも間違っている

精神障害のある子どもの治療目的での施設入所をめぐって
親の決定権を確認したものとして有名なParham判決でも、
親の決定権を認めつつ、子どもの最善の利益に従って行動しない親もいることが指摘され、
親の謝った決定権の行使が子どもを従属させ無用な医療や拘束に繋がる場合には
裁判所が介入すべき必要に言及されている。

さらに非服従原則を裏付けるものとして
ナチスの実験やNYの障害児施設(ウィロウブルック)での虐待事件などの反省、
施設での向精神薬による拘束禁止などにも触れられていますが、

病気の子どもの治療のために別の子どもの身体を利用する親の意思決定についても
一節が割かれています。

そこに書かれていることは、このシリーズの冒頭に述べたように
一昨日のエントリーや救済者兄弟の問題にも繋がって興味深いので拾っておくと、
(救済者兄弟については、一昨日エントリーにリンク一覧があります)

こうしたケースは現場で判断されることが多いが、
裁判所に持ち込まれる数少ないケースでは裁判所は進んで関与している。それは、
こうしたケースでの親の選択が、親とレシピエントの子どもの利益のために
ドナーの子どもの身体を犠牲とするものだからで、

レシピエントの子どもとの親密な関係を保てることで
ドナーの子どもの最善の利益となることが明らかな場合にのみ
臓器提供の意思決定を認めるのが裁判所の一貫した姿勢である。

裁判所は、誰かの目的にドナーになる子どもの身体を服従させることは認めない。


(この一節、Strunk判例などを考えると、ちょっと考え込んでしまうのですが)

以上のように、成人の場合であっても
一人の権利は他者を服従させてまで行使を認められることはなく、
一定の基本的な意思決定は本人にのみ認められているのだから、
親だというだけで、または医療が関わっているというだけで、
子どもの人格を侵害する権利が認められるわけではない。


この点については、私も前に
アベコベというエントリーで書いたことがあります。

別の言葉で書いているだけで、これはOuelletteの主旨と全く同じだと思うので、
以下にコピペしておくと、

米国、カナダの医療において、子どもの場合は「親の決定権がすべて」という方向に推移しつつあると思われること。

もちろんワクチン接種など公共の利益を優先させようとする場合には、親の決定権を制限する方向に力が働いていこうとしているけれど、特に障害のある子どもたちの身体に社会的理由で手を加えることについては親の決定権を尊重する方向性が明確になってきていて、

Ashley事件のあったシアトル子ども病院の医師らは、子どもの医療に関しては健康上の必要がないものであっても「親の決定権で」と主張している。

カナダのKayleeのケースを見ても、親の決定権は、もはや子どもの生死や臓器提供の判断にまで及んでいる。(もちろん、このケースでは医療サイドからの誘導があったのだけれども)
子どもは親の所有物なのか、と首をかしげてしまう。

しかし、気をつけておきたいと思うのは、ここでも「親の決定権」が声高に主張され意思決定の正当化に使われるのは「死なせる」「臓器を提供する」という方向の判断についてのみであって、「助けてほしい」「生きさせてほしい」という方向で親が意思決定を行おうとしても、病院や医師から「それは無益な治療だからできない」と拒まれるのだから、ずいぶんとご都合主義に1方向にのみの「親の決定権」。

医療における意思決定の議論が、例えば自殺幇助など、意思決定能力のある成人においても「自己決定がすべて」ではないというのに、子どもという弱者に関しては、その命を含めて「親という強者による決定」がすべて。

12歳~14歳になれば mature minor(成熟した未成年)として本人意思が尊重されるのに、それ以前の未成熟な未成年と知的障害のある子どもでは「親の決定権」にゆだねられる。

それ以下の年齢の子どもや知的障害のある子どもこそ、成熟した未成年よりも成人よりもセーフガードを強力にして保護すべき存在であるはずなのに、意思決定能力がないから保護する必要がないといわんばかりで、

これは絶対にアベコベだ、と私はいつも思う。


(次のエントリーに続く)