「孤宿の人」は、原発やA事件、慈善グローバル金融ネオリベ資本主義についての小説だった

……と、妙なエントリー・タイトルになってしまいましたが、
宮部みゆき「孤宿の人」は、江戸時代の四国の架空の小藩を舞台にした時代小説です。

Amazonにある出版社からの紹介には、以下のように書かれています。

讃岐国、丸海藩――。この地に幕府の罪人・加賀殿が流されてきた。以来、加賀殿の所業をなぞるかのように毒死や怪異が頻発。そして、加賀殿幽閉屋敷に下女として住み込むことになった少女ほう。無垢な少女と、悪霊と恐れられた男の魂の触れ合いを描く渾身の長編大作。

加賀殿の流刑地に選ばれたのは、
地方の小藩である丸海藩が染め物の経済振興策に成功し潤ったことに目をつけた幕府が
カネを使わせて強大化を防ぐと同時に、あわよくば失策を突いて取りつぶしを狙ってのこと。
中央権力に翻弄される地方自治体の存亡がかかった緊急事態――。

冒頭、いよいよ加賀殿の到着間近に迫り、藩内の不穏な空気が濃厚になる中、
ごく他愛ない、くだらない理由による殺人事件が起こる。

けれど、何の罪もない女性が殺害された事件は「病死」として処理される。
大切な家族を殺された人たち、その周辺で事実を知っている人たち
みんなが憤りや憎悪を押し殺し、口を拭って事実を隠ぺいする。
藩を守るため、家を守るために――。

宮部作品としては正直、冗長。テンポも緩やかで、ちょっとかったるい。
でも、上下巻を辛抱して読み切ったのは、

この物語の主人公が、実は
大人たちのウソに加担することができないために居場所を失い、
大人たちに利用されて思いがけない運命に翻弄されることになっていく少女ほう ではなく、

権力構造の下では善意の人たちまでが、それぞれに何かを守るために、
みんなでウソをつき、または自ら進んで騙されて、
架空の物語に加担させられていく人の世のカラク」こそが
この物語の主人公なのではないか、と思えたから。

幕府と地方の小藩の関係は
今の日本の政府や都市部と、青息吐息の地方自治体の関係にも置きかえられるし、

さらに言えば、グローバル政府とも呼びたいほどの圧倒的な勢力と、
既に彼らの手に落ちて、外部から見えにくいのをいいことに好き放題にされていたり、
まだ踏ん張っている代わりに生き残りに汲々とさせられている各国政府との関係に
置き換えることだってできる。

そんな中で、ウソをつき、あるいは否定しないことでウソに加担し、
または自ら進んで騙される人がいる。

そういう人たちによって、多くの「愛」を巡る美しい架空物語が作られていく。
誰かがそれでカネを儲けたり、力を拡大していくための物語。
弱いものの命など、どうなってもいいとばかりに――。

「孤宿の人」の物語も、その展開につれ、冒頭で起きた殺人事件以外にも、
多くの罪もない人たちが無残な死に方をする。

それは多くの場合、強く力のある者たちの都合や
彼らの事情に帳尻を合わせるための犠牲だ。
だから、いとも簡単にころり、ころりと殺されていく。
そして、流行り病のコロリで死んだのだなどという物語で
彼らの死の惨い真相が覆い隠されていく。

真実を知っている人たちも背景の事情を知っている人もいるのに、
そして彼らはその多くが善良な人たちだというのに、それでも、
みんなで別の物語を作り広めることに加担していかざるを得ない。
それぞれに大切な何かを守るために。

ほうと出会って家族のような存在となる若い女性、宇佐の次の言葉が、
私にはこの物語のメッセージだと思えた。

……世の中には秘められた事柄がたくさんある。丸海のような小さな藩にも、他人や他家に知られたくない事情を抱えた人や家がある。そしてそれらの大方は、上手に隠されたまま時をやり過ごす。
でも、何かを本当に覆い隠してしまうなんて、けっしてできることではない。……
二人、三人、四人と、関わる目を耳が増えれば増えるほど、ますます秘密は漏れ易くなっていく。……
そして、それらの漏れた秘密の大方は、今度は知って知らぬふりの人々のなかで隠されていくのだ。
固く伏せられた琴江さまの死の真相(冒頭の殺人事件を指す)も、知っている者は知っている。知って知らぬふりを強いられている。けれどもいつか時が来れば――加賀様お預かりが、どんな形であれ無事に終わり、事を明らかにしても良くなったならば、知っている者が知っていることを、知っているままにしゃべれるようになるかもしれない。
いや、かもしれないんじゃなくて、そうしなくちゃいけないんだ。……
いつかはきっと、みんなみんな明らかにしよう。もう誰も、秘密に苦しみ、苦しめられることのない世の中にしよう。秘密のなかで、人の命が失われることのない世の中に。
そんなふうに誓っている“誰か”が、そこにも、ここにも、そこらじゅうにいるはずなんだ。
(p.280-281 ……の個所に省略あり。ゴチックの個所は原文は傍点)


宇佐は「女のくせに」と非難されバカにされつつ引手(岡っ引き)の見習いをしており、
漁師町の出身でありながら町場を担当する番屋の引手として、
対立をはらむ2つの世界の両方に繋がり自由に行き来できる反面、
それぞれの世界から疎外されてもいる微妙な存在。

しかし宇佐自身は矛盾なく一貫していて、
丸海の貧しい民に、その一人としてひとしなみに寄り沿っている。
物語の後半では、救貧院の役割を兼ねる破れ寺に住み込んで病人や困窮者の世話に当たる。

私には宇佐の姿が、今の日本で
ホームレスや派遣切りの被害者や震災や原発事故の被害者や高齢者や障害者や、
なにしろ世の中から切り捨てられようとしている人たちの側に立ち、
その人たちの傍で身を持って支援を行っている人たちに重なってみえた。

そして、さらに現代を映して象徴的だと思ったのは、
物語の展開に終始、匙家と呼ばれる医家が重要な役割を担っていること。

藩のお抱え医師である匙家は七家。

筆頭の匙家は藩主の脈をとり、周辺の権勢ある筋とも姻戚関係が何重にも結ばれて
権力の中枢に入りこみ、上層の権力と一体化し、施策立案や共謀にも加わる。
時には権力に謀殺の手段を提供する役割も担う。

こうした人たちを、
医療や、もっと広く、諸々の専門分野の御用学者と置き換えてみれば、

この小説のテーマは、
そのまま「知っていて知らないふり」で守られてきた原発の「安全神話」であり、
Ashley事件の真相を隠蔽したまま推進される「成長抑制療法」であり、
ワクチン債を売る一方で「途上国の子どもの命を救うために」と唱えては
カネが廻り回って肥えてゆく慈善グローバル金融ネオリベ資本主義ではないか、と。

七家の中にはもちろん市井の民と親しみ、彼らのために尽くす医師らもいて、
彼らは、ほうや宇佐と同じ世界の住民のようにも見えはするし、
彼女らを思いやり温かく遇することもするけれども、
同時に彼女らを藩上層部の共謀の手段として用い、切り捨てもする。

病気を口実にかくまっている患者が罪もないまま殺されると分かっていても、
差し出せと奉行所から命じられると、苦しみながらも応じる以外にすべはない。

原発、医療を始め科学とテクノロジーの分野に身を置く人は、
実は宿命的にこうしたジレンマの中にあるのかもしれない――。
そんなことを考えさせられた。

(私は、山中伸也氏の発言からは、
このジレンマが聞こえてくるような気がする)

でも、ここでも宇佐は思うのですね。

もともと染め物で特産物ができた、藩が潤った、と言っても
実際に技術を身につけ汗水流して働いている磯の民草はちっとも楽にならず
それで潤っているのは藩のごく上層部だけなのだ、

(最先端医療技術が臨床応用されたとしても下々の民の手が届く治療にはならないだろうし、
国際競争に勝っても企業と株主が潤うだけで今の弱肉強食原理では一般国民には回らない)

いっそ畠山家がお取りつぶしになったところで、
下々の民には本当はたいして影響はないのだ、と。

自治体や国が立ちいかなくなれば、下々の民はモロに影響を被ることになるところが
江戸時代とは事情がまるで違う。でも、それを言えば、どんなに頑張っても、
どの国もいずれ頑張りが効かなくなるような残酷な仕組みが既に巡らされてしまったのでは?)

そして、

(仮に畠山家がつぶれて)井上家が匙の格式と碌を失っても、舷州先生も啓一郎先生も医者であることに変わりはない。お二人とも掘外の者たちに慕われている。畠山家に仕える匙家という枷を離れて、むしろ今までよりものびのびと丸海の人々に交わり、新しい領主の新しい治政のもと、一介の町医者として生活することが、十分にできるのではないか。
学問好きの若先生など、そっちの方こそむしろふさわしい人生であるかもしれない。……
(p.311-312)


著者はここで、
それでも個々の生き方として選択は可能だ、と言っているのだという気がする。

誰のために、何を目標や生きがいにして、その仕事をするのか、

原発が安全ではないことを知りながら
「安全だ」ということにしておかなければ都合が悪い人たちのために働いてあげて、
見返りに権威をまといカネを儲けて、ふんぞり返らせてもらい傲慢な人として生きるのか、

市井の人の中で一介の○○として、
その仕事を志した日に大切だったものを見失わず、清潔な生き方をするのか、
(ここで私の頭に浮かんだのは野の花診療所の徳永医師だった)

「いつかきっと、みんなみんな明らかにしよう」と
晴れ晴れと心に誓うことができるのは、後者の生き方をする人だろうし、

そういう“誰か”が一人でも増えていくことを願って、
今という時代の危うさをじっと透徹した目で見据えながら
宮部みゆきという作家は作品を書き続けている人なんじゃないか、と、
ちょっと退屈な長編をがまんして読み終えて、思った。