初の子ども脳死移植「少年」は事故死ではなく自殺だった!?

昨日の補遺で拾った週刊文春が1日遅れで田舎にも届いたので、読んでみた。

まず、記事は、今回の移植ネットの対応が最初から異例だったことを指摘する。

12日、最初の会見でドナー遺族のコメントが読み上げられた。
「息子は、将来は世の中の役に立つ大きな仕事をしたいと周囲に言っていましたが、
脳は回復せず、願いはかなえられませんでした。
臓器提供があれば命をつなぐことができる人たちのために
彼の身体を役に立てることができれば今、
彼の願いに沿うことだと考えました」

翌13日から始まった移植の成功を受け15日にも移植ネットは
「すべての移植手術が成功してうれしい」との遺族のコメントを発表。

(これは記事にはありませんが、提供臓器が運ばれたクーラーボックスに
家族から成功を祈る言葉と共に折りヅルが添えられていたことは、
何度も映像と共にニュースで報じられていました)

また、虐待のチェックについても、12日の会見で移植ネットが
非常に無責任な発言をしていたことを記事は指摘している。

この点について、このニュースを12日の補遺に拾った際、
私は以下のように書いた。

「各提供病院が(虐待の有無を調べるなど15歳未満からの臓器提供のための)体制を
整える必要があるが、すぐにできることではない」とは、
「だから、整わなくても見切り発進してよい」という意味? 

その「よい」とは「倫理的に問題がない」という意味? 

「すぐにできることではない」というのは
「やらないでもよい」とすることの正当化になりうるのか?


自殺では? との疑惑は「ある移植関係者」の証言によるもの。

少年は新潟県内に住む男子中学生。
この中学生は六日午後五時ごろ、居住する町でJRのホームから列車に飛び込んだ、という」

昨日の補遺で2チャンネルから拾って来た三條新聞の記事が報じているのが
この事件である可能性が非常に高いのではないかと思われます。

救急搬送されたのが6日。
「搬送先は臓器提供の経験を持つ病院」で
6日の時点で両親には問診票により提供意思を確認。

回復は難しいと両親が告げられたのは2日後の8日。
その日の内に移植コーディネーターが来て説明した。
9日にも移植ネットのスタッフがきて、2度に渡って説明。
両親が決めたのは11日。

事故から、わずか5日後のことだ。

自殺だった可能性を暴露した移植関係者は

新潟県警は、中学生が自殺だったのでは、と疑いながら
遺体を詳しく調べることができなかったようです。
教育委員会に至っては、自殺がいじめによるものかどうかの調査にすら及び腰で、
記者の取材にも“ドナーが特定されてしまうから、学校名も言えない”と、
腫れ物に触るような扱いだったそうです」

「今回の強引な運びには、なかなか小児移植が進まないことへの焦りが感じられます。
しかし、自殺の疑いが濃厚なケースにもかかわらず、移植ありきで突き進んでしまったことは
これからの小児移植に大きな禍根を残すのではないでしょうか」

また、厚労省の研究班が作った脳死判定マニュアルでは

「死因に不審な点が見つかれば、提供病院側は学校や警察のみならず
児童相談所や保健所などと連携して調査にあたる。
虐待の痕跡などがあれば、ただちに脳死判定を中止し、
臓器摘出はしないと定めている」とのこと。


なお、臓器移植法を問いなおす市民ネットワークは4月20日付で
「15歳未満の法的脳死判定・臓器移植」に関する声明を出し、以下のように求めている。

 「交通外傷」と呼ばれる事故から家族が提供を決断するまでの経緯と行われた救命医療の内容について、提供病院は記者会見を行って詳しい経過を発表するべきです。

 さらにこの度の臓器提供では、本人の拒否の意思の確認や虐待を受けていなかったことの確認の手続きや方法が明らかにされなければなりません。

 提供者とその家族のプライバシーを守るという理由で、最低限公表するべき情報も一切開示しないなら、「移植医療の透明性」は到底確保されません。


まず、「ある移植関係者」の勇気に敬意を表したいと思う。

まだ事実が確認されたわけではないのだから、
このケースがそうだというつもりは毛頭なく、
あくまでも一般論だけれど、

我が子の自殺という、辛く受け入れがたい事実に直面した親が、
まず最初に、その事実を否認したい心理に陥るだろうことは十分に想像できる。

親による虐待があったケースでは、臓器提供への同意を求めることが、そのまま
虐待が我が子を自殺に追いやった事実の隠ぺい手段を親に提供することになってしまう可能性もある。

学校が時にイジメの事実を隠ぺいしようとすることも
既にいくつもの事件で感じられてきたことだ。

私たちの社会には、多くの子どもたちが虐待や、
一見すると虐待に見えない隠微なコントロールの犠牲になっている痛ましい現実がある。

そういう子どもたちが、周りの大人たちから救いの手を差し伸べられることがないままに、
ついに追い詰められて自殺を図り、脳死状態に陥った時にまで、

早く1例でも多くの移植をやりたいとか、
家庭内や学校内の事情を詮索されることを避けたいなどの、大人たちの利害によって、

その子の苦しみが、まるでなかったことにされてしまうばかりか、
美談にまで仕立て上げられてしまうとしたら、それは、あまりにもむごい。

そんなことは、あってはならない、と思う。


もしも、このケースで、臓器移植が優先されたことによって、
一人の少年の死に自殺の疑いがあっても、その確認もされず、
仮に自殺だった場合の原因が探られる必要にも目がつぶられてしまったのだとしたら、

そして万が一にも、敢えてその事実を隠ぺいしようとの自覚的な意図によって
「電車への飛び込み」が「交通事故」に化けた……などということがあったのだとすれば、

この第一例は、小児脳死臓器移植における「和田心臓移植」とされるべきなのでは?


【24日追記】
文春報道を受けて、BLOGOSに
都立多摩総合医療センター心臓血管外科部長の大塚俊哉氏が
「本邦初の小児脳死ドナー臓器移植に投げかけられた疑問」という論考を寄稿している。

仮に虐待やいじめによる自殺でなかったことが判明する場合であっても、
「その死は結局“家庭や社会が救えなかった無念の死”である」

ドナー家族の個人情報は堅固に守られるべきではあるが
「しかし、自殺か否かなどのベーシックな倫理的要素についてまで」
『ノーコメント』を貫き通すほどドナー選択のプロセスをブラックボックス化してはいけない」