「ハイリスクの親」を特定することから始まる児童虐待防止プログラム:Norman Fostが語る「メディカル・コントロールの時代」:YouTube(2分半)


Norman Fost, MD, UW Health Child Protection Clinic


びっくりするなぁ、もう。

障害児に対する嫌悪感・差別意識を露骨にむき出しにして恥じない、
Ashley事件では親の決定権がすべてという論陣を張り続けている
あの Norman Fost が、Wisconsin大学の児童保護クリニックにも関わっているらしい。

で、この映像で語っているテーマは2つで、無益な治療と児童虐待防止。

まず前半の、無益な治療判断について語っていることの概要を以下にまとめてみると、


「重病の子ども、苦しんでいる子ども」に
命を引き延ばすためのアグレッシブな治療を続けるかどうかの判断は難しいし、
しばしば意見の対立が起こることあるが、
ほとんどの場合、それは事実関係の誤解があるからで、

その子どもの予後をきちんと説明し、
例えば、「その子どもがどのくらい延命されるのかとか、
果たして目覚めて機能し始めるのか」などについて
事実関係が正確に理解されれば、

たいていの人が
「なすべき正しいことが何かは明らかですね」と(治療停止に)同意する……と。



障害児に対する「無益な治療」論に対する批判の論点は
その子どもの延命期間の長短でも、「目覚めて機能し始める」可能性の大小でもなく、
障害を治療停止正当化の論点とする姿勢そのものなのだけれど、

意識的なのか無意識的なのか、Fost は、ゼッタイにその違いが分からない(分かろうとしない)。

ここに見られる、議論の成立そのものを阻む頑迷パターンは
あの成長抑制WG論文の頑迷にそっくり。

成長抑制批判の論点は
障害の重さによって正当化する姿勢そのものなのだけれど、
FostやDiekemaが主導したに違いないWGの論文は、
FostやDiekemaのこれまでの正当化を頑迷に繰り返している。
だって、重症児にしかやらないんだから、問題はないじゃないか、と。

この生命倫理学者が言葉を操作する狡猾さを思うと、ただの頑迷では、もちろん、ない。

Fost はここで「重病の子ども、苦しんでいる子ども」と言い、
「障害」という言葉を一切使っていない。

しかし、その後の「目が覚めて機能し始める」という表現で、
重症の意識障害を念頭に置いていることは明らかで、

その「意識障害」には、もちろん、
Fost の「どうせ重症児には何も分からない」パターンの重症児に対する偏見により、
植物状態から最少意識状態から意識障害を伴っていない可能性が高い知的障害まで含まれている。

「機能し始める」という曖昧な表現は、
聞く人それぞれが障害に対して持っている偏見に応じて、その具体像が変わるだろう。

しかし、そこで喚起される、それぞれのイメージには、Fost によって
「意識がない状態」とか「意識があっても障害がある状態」は「人として機能していない状態」との
価値判断が添加されている。

「どのくらい延命されるのか」と「目覚めて機能し始める」が並列されることによって
「機能していない状態で生きること」は自ずと「延命できない=死んでいること」と等価として提示されてもいる。

何よりも狡猾に仕組まれたイルージョンのタネは
ここで対象にされているのが 「目が覚めて」いない、本当に「意識のない」子どもなのであれば、
それは冒頭で Fost がいう「苦しんでいる子ども」ではないということだ。

ここで Fost が演じてみせている手品は、
「重病の子、苦しんでいる子ども」の、その苦しみを長引かせないために
効果が期待できないアグレッシブな治療はやめることが正しいという論理でスタートしながら、

さりげなく全然それとは別の文脈に持ちこんで、
最終的に意識障害がない重症障害児への治療停止まで正当する結論に落してみせるイルージョン。

(これは、「死の自己決定権」議論でしきりに使いまわされている手品でもある)

そして Fost は後半の児童虐待予防策について語る際にも
同じイルージョンを使う。

自分たちが講じた児童虐待の防止策で
保育所で虐待リスクが高い親を特定し、家庭訪問員を送ったところ虐待が予防できた。
このプログラムによって、虐待を2度と繰り返さないやり方で
子どもを安全な家庭に返すことが可能だと語っている。

彼のプログラムが保育所で選び出すのは「虐待リスク」の高い親なのに
そのプログラムの効果を語る際には「虐待が再発しないように」と既に虐待があった親に話がすり変わる手品。

もともと「ハイリスク」でしかないのだから、
「介入によって予防できた」という効果の証明はできないはずでは?

それになにより「彼ら(誰をさすかかは不明)にはリスクの高い親が分かりますからね」という程度の根拠で
「虐待リスクの高い親」を特定する……って、一体どういう予防プログラム……?
これは、もう 「マイノリティ・リポート」の世界では……?

(もっともビデオはつぎはぎなので、ここにない場面で詳細が語られている可能性はありますが、
「彼らは彼らがどういう人間かを知っていますからね」という Fost の言葉も、多くを語っているのでは?)

「虐待予防」の名のもとに「虐待リスクの高い親」を抽出し監視下に置く
過剰な管理を正当化するために、彼はこんなことを言っている。

小児科医である私のクライアントは子どもですから。
私にとって大事なのは子どもです。

かつて高名な小児科医が言ったことがあります。

小児科医には大事なクライアントが3人いる。
まず子ども。次に子ども。そして最後に子ども。


Ashley事件で親の決定権だけを代弁・擁護してきたNorman Fost がこれを言うのは、
私にはゼッタイに認められない。


Norman Fost が立っているのは、子どもの側でも親の側でも、ない。
彼が立っているのは、医療の側だ。

医療の独裁で子どもの権利を侵害しようとする時には親の決定権を隠れ蓑に使い、
親の権利を侵害しようとする時には子どもを守る小児科医の責任をまとって見せる。

彼にとって大事なクライアントがあるとしたら、それは「医療の権威」そのもの。

そう、きっと、Norman Fost が頭に描いているのは、
医療の論理と権威が支配する世界――。

メディカル・コントロールの時代――。