今年のシアトルこども病院生命倫理カンファは、貧困層の子どもと知的・精神障害児の医療切り捨てを議論

シアトルこども病院は05年から毎年7月に
小児生命倫理カンファレンスを開催しています。

今年は7月22、23日で、第7回のテーマは

Who’s Responsible for the Children?
Exploring the Boundaries of Clinical Ethics and Public Policy

子どもたちの医療はだれの責任か?
臨床倫理と公共施策の限界を探る

カンファの情報ページはこちら

そこに、このカンファで検討される具体的な問いがいくつか挙げられており、

• Under what circumstances should individual providers or healthcare institutions extend medical care to children whose families cannot pay?
• Do providers' responsibilities extend beyond the walls of the clinic? How do we balance obligations to provide better healthcare with obligations to improve other factors that influence health, such as diet, exercise, housing and education?
• Do providers have an obligation to tell families about healthcare options that are not “available” or will not be provided because of financial constraints?
• Should care to children be prioritized based on social, physical or mental health status?
o Children who have expensive technology-intensive care needs, such as ventilators, dialysis or transplants?
o Children with intellectual disabilities who require special resources, yet will remain dependant on society?
o Children who have mental healthcare needs?
o Children who are undocumented?

• How will healthcare reform affect the goal of providing for the basic healthcare needs of all children?


・家族に支払い能力のない子どもに個々の医療提供者または医療機関が医療を行うべきだとされる状況とは?

・医療提供者の責任はクリニックの外にまで及ぶのか? より良い医療を提供する義務と、食事、運動、住まいや教育など、健康に影響するその他のファクターを改善する義務とのバランスをどのようにとるのか?

・経済的な制約のために「対象外になる」または提供されない治療の選択肢について、家族に知らせる義務が提供者にはあるか?

・社会的、身体的または知的状態に応じて、子どもたちへの医療に優先順位をつけるべきか?

たとえば、
  ・人工呼吸器、人工透析や臓器移植など高度技術による高価な治療が必要な子どもは?
  ・特殊な資源を必要とする知的障害があり、社会に依存し続けるであろう子どもは?
  ・メンタル・ヘルスのニーズ(つまり精神障害?)のある子どもは?
  ・不法入国・不法滞在の子どもは?

・すべての子どもの基本的な医療ニーズに応えるというゴールに、医療制度改革はどのように影響するか?


もう、一読段階でわわわわっ……と頭の中が疑問だらけになるのですが、

まず漠然と思うのは、
さすがに、主催のTruman Katz小児生命倫理センターは
Ashley事件を正当化し続けるDiekema医師の牙城とあって、
いかにも“Ashley療法”論争の論点がそのままここにもあるなぁ……と。

例えば、
① 本来は社会で解決すべき問題が
最初から医療の中で解決されるべき問題として提起される傾向。
② 障害、特に知的障害に対する根深い偏見と差別。
③ その差別意識功利主義的な切り捨て医療の正当化に使われる傾向。

最初の①の傾向でいえば、
例えば家族に支払い能力がない子どもへの対応は
最初の問いが前提しているように個々の医療提供者や医療機関の判断の問題ではなく、
米国社会または各州レベルでの社会や行政の課題として対処すべき問題であり、

それがなされていないために個々の医療者が判断を負わされている状況があるなら
それは医療が社会に問題を投げ返すべきなのであり、それをせずに医療の中で
どのような状況では治療をすべきで、どのような状況ならすべきでないかと
個々の判断の問題として提起され、そこに基準を模索する方向の議論が行われるとしたら
それは筋も違うし、不適切なのでは?

もっとも、メディケイドも
メディケイドの対象にはならないけど保険に入れない層の子どもには S-Chipプログラムもあるはずなので、
そこのところの事情は、よく分かりませんが。
(カンファ準備委員会の中にはWA州保健局からも人が出ています)

第2の予防医療の責任に関する問いについても同じことが言えて、
この問題を個々の医療提供者の責任範囲の問題として提起するのは筋が違うと思う。

②については一目瞭然。
あまりにも不快なので今たちまち云々する気になれませんが、
Ashley事件に関して言われてきたことの多くが
ここでも言えるような気がします。

③ についても同様ですが、
こうした問題提起がシアトルこども病院から出てきていることは
決してAshley事件やその背景と無関係なわけではないでしょう。

それについては、
今朝アップしたばかりの以下の2つのエントリーに詳細をとりまとめました。