Robert Truog「心臓死後臓器提供DCDの倫理問題」講演ビデオ(2009)

12月8日の補遺で拾った
シアトルこども病院での去年のTruogの講演「心臓死後臓器提供DCDの倫理問題」を聞いてみました。

Ethical Issues in Organ Donation After Cardiac Death
Provider and Nursing Grand Rounds Online Videos
Seattle Children’s Hospital, August 20, 2009


Truogは臓器提供の「死亡者提供ルール」を廃止して
生きている人間からでも採っていいことにしようと主張している倫理学者だということは
小松美彦氏の著書でも読んだし、08年に以下のBostonBlobe記事でも言及されており、
ずっと気になっていました。


なお、08年の秋には、TruogはHCRに以下の論文を書いており、



翌夏のこの講演でも、論文への反響について語られています。

例によって1度聴いたくらいでは分からない部分の方が圧倒的に多いのですが、
大まかな流れとしては、上記Boston Globe紙でのNorman Fostの、
死亡者提供ルールは今でも欺瞞に過ぎず、
脳死者とされる人は死んでいるわけではないのだから、
それならば命を救うために死亡者提供ルールを撤廃してはどうか、
という主張と同じ論理展開で、生きている人を死なせて臓器を摘出するDCDについて
倫理的に問題はない、と結論付けるもの。

前半を聞いていると、

DCDではドナーとなった子どもは生きているうちにICUから手術室に移されて
そこで臓器保存に必要な処置を受け、その後に人工呼吸器を取り外すので
家族は死後の子どもと一緒にゆっくり過ごすことができない。

生命維持装置を外しても一定時間死ななかったらICUに戻って終末期医療を続けることが
いずれのDCDのプロトコルでも定められているので、その場合には
家族は子どもの喪失を2度も体験しなければならない。

終末期医療の質の基準とされる項目53のうち、
DCDとの間で両立できる項目はわずか9しかない。

生命維持治療停止の決定と臓器提供の決定は別々に行われると
DCDの方針ではされているが、それは現実には線引き不能なもの。
両者の間には利益の衝突がある。

家族のカウンセリングを含め、
現在のシステムそのものが提供臓器を最大限に増やす目的でできている。

例えば、家族にアプローチする段になると
それまで関わってきた医療者が引っ込みOPO(臓器獲得機構)の人間が登場する。

家族に対して中立な立場で語りかけるアプローチと、提供を前提に語りかけるアプローチとでは
「臓器提供についてご説明します」と「大切なお子さんの臓器を生かせる機会についてご説明します」
「もしも(If)提供をご決断されるとしたら」と「提供を決断されると(When)」など、まるきり違う。

そもそも、DCDのドナーは死んでいるのか?

生きている患者をドナーにすることを巡っては
「不可逆性」という概念で正当化されているが、ここでの「不可逆性」とは
「蘇生しないことを選んだために不可逆になる」ことに過ぎない。

デンバー・プロトコルでは心停止から75秒だけ待って心臓を摘出したが、
では75秒過ぎたところで母親が「やっぱりやめます」と決意を翻したとしたら?
その時に蘇生させれば、その子の拍動はおそらく戻るに違いない。
それでも「不可逆」だというのだろうか。

こんなふうに話が続いてくると、
聞いている側はあやうく、この人はDCDに反対の立場なのだろうと思いこみそうになる。

ところが、デンバー子ども病院のプロトコルを例にとった上記の展開に続いて
Truogは「いったいDCDのドナーは死んでいるのか?」と問い、
すぐに続いて「死んでいるかどうかが、そもそも問題だろうか?」と問うことで
それまでの話の流れを一気に逆転させてしまうのです。

その後の彼のプレゼンの要旨は以下のような感じ。

医師には患者を殺してはならないという規範意識が沁みついているので
(また裁判所の介入で話が面倒になる可能性もあるために)
自分たちは患者を死なせているわけではないと、あれこれと詭弁を弄し、
言い替えの工夫をしては、ごまかしてきただけで
医師は患者を死なせる行為を頻繁に行っているのが現実である。

(質疑の際に、Truogは、世界最初のヨハネスバーグでの心臓移植手術の際、
ドナーの胸をあけた医師らが拍動する心臓を前に摘出をためらい、
わざわざ氷水をかけて停止させてから摘出したというエピソードを、
心臓の拍動で生死を線引きすることの無意味さの事例として紹介。
会場からも「氷水をかけて停止」のところで笑いが漏れました)

医師が患者を死なせる行為の正邪は、倫理的に考えると、
患者の状態と予後、患者の希望、家族が考える患者の最善の利益など、状況次第である。

臓器提供の場合の倫理ベクトルは3つある。

・ここに、やがて死に至るほど重大な脳損傷を受けた3人の子どもがいる。
・親は提供を決めている。提供は親に心理的なメリットももたらす。
・移植臓器がなければ3人の子どもが死ぬ。

これを考えてみれば、どう考えてみても反対する理由はない。
わざわざ75秒も待つ必要すら、ない。

HCRの論文に対して、この提言は功利主義だとの批判があった。
功利主義は悪であるとのニュアンスで悪のレッテルを貼られた。
しかし自分の提案は功利主義ではない。

臓器提供は善であるとの立場に立つ限り、
臓器移植を待っている患者のニーズに社会は何としても応えなければならない。
自分の提案はむしろコミュニタリアニズムでもある。


Truogは一応ここではDCDの倫理性を説いていますが、
彼の論理が「どうせ死ぬ患者なんだから殺したってかまわない」である以上、
TruogもまたJulian Savulescuと同じく、次の射程として
「臓器提供安楽死(ODE)」を捉えていることは間違いないでしょう。

なお、プレゼン冒頭で、紹介者が
シアトルこども病院が前米初の小児科DCDの方針を作ったこと
画期的な移植出をしたばかりであることなどに言及しているので、
検索してみたところ、方針そのものにはヒットできなかったのですが

シアトルこども病院は
いまだに少ない小児科領域でのDCDを積極的に行っている数少ない病院の1つとのこと。
同病院の医師が07年にDCDについて論文を発表していました。

Trends in Pediatric Organ Donation After Cardiac Death
Robert Mazor, MD, Harris P. Baden, MD
Pediatrics Vol.120 No.4 October 2007, pp. e960-e966

また、行われたばかりの「画期的な移植手術」というのは、
時期とタイトルから、こちらではないか、と。 ↓


母親の腎臓を娘に移植。85年の第一例から同病院の500例目に当たる移植手術。
なお、同病院では年間50例の移植を実施している、とのこと。