「障害者運動は社会モデルのためにAshleyを犠牲にした」と非難する07年のHCR論文

前から存在は知っていたけど、是が非でも読みたいほどでもないから、とりあえず放置したり、
そのうちにすっかり忘れてしまっていた論文と、時間が経ってから何かの折にネットで再会してみると、
思いがけず全文公開されていた……という嬉しい発見が、たまにあります。
07年の論争当時に書かれた、これも、その1つ。

Disability and slippery slopes
Anita J. Tarzian, Hastings Center Report, Setp-Oct, 2007


一部の障害者運動の関係者がA療法の問題について
「何がAshleyにとって幸福なのか」という視点で語られるのを見聞したことから、
「障害者運動も無意識に重症児・者は障害者の中でも別、と線を引くのですか」と問い、
Ashleyにとっても他の障害者と同じように「権利の問題」ではないのかと問題提起して、
重症児・者を(後には親をも)置き去りにしない社会モデルを訴えたことがあるのですが、

Tarzianの論文が私にとって非常に興味深いのは、
私と同じ問いを発していながら、その主張は全く反対であること。
私は、別扱いするのは障害者の権利運動の重症児への裏切りだと考えたのに対して、
Tarzianは、別扱いしないのが障害者の権利運動の重症児への裏切りだと主張し、

重症児・者に線引きをせず“A療法”を「権利の問題」として扱う障害者運動は
身障者の利害に基づく社会モデルを優先して重症児の特性や彼らとの違いを無視し、
Ashleyという重症児個人を犠牲にしたのだ、と非難している。

とても印象的なことに、冒頭で著者はTerry Schiavo事件に言及している。

07年の論争時、ネットでは「これはシャイボ事件の再来だ」という懸念の声が結構出ていて、
当時の私はその意味が良く分からなかったのですが、このブログでの作業を通じて、
今は2つの事件に相通じるものがあることも「これはシャイボだ」と思わず口走った人たちの警戒心も
非常によく理解できるようになりました。

しかし著者が考えるSchiavo事件とAshley事件との共通項とは
重症障害児・者に対する軽視や偏見ではもちろんなく、
本来そうではないものを障害者運動が敢えて「人権問題」にした事件であること。

Tarzianの論文要旨は、だいたい、こんな感じ。

身体障害者の利害を中心に考えられた「障害の社会モデル」は、
支援によって社会生活が可能なレベルの知的障害者くらいまでは織り込んでいるものの
Ashleyのような社会生活がありえない重症知的障害児・者のことは念頭にない。

社会モデル・自己決定権を唱えられるような障害者と違って、
Ashleyのように自己決定できない重症児の場合には親が本人の最善の利益を考えてやるしかないのに、

そうした親の愛情ある行為を、自分たちの原則論で人権を持ち出して否定するのは
障害者運動が自分たちのアジェンダのためにAshley個人を犠牲にしたのだ。

“Ashley療法”を重症児に認めれば“すべり坂”が起きるとの彼らの批判は、
重症児・者とその他の障害者の違いを理解すれば起こるはずのない“すべり坂”であり、的外れ。

“すべり坂”の懸念を言うなら、
障害とQOL、医療資源の分配について社会全体で広く議論を推進することこそが肝要。
(と、まさに医学モデルで結論しているわけですね)

Tarzianの批判の背景にあるのは、本当は、
重症児・者はその他の障害児・者と同じ権利には値しないという線引きを
障害者の権利運動も共有すべきであり、それをしないのが怪しからん、という主張でしょう。

それはAshley父やDiekemaらの主張するところと、まったく同じです。
Ashleyの父は08年のCNNのメール・インタビューで以下のように書いています。

We are in the unfortunate situation today where activists with political power and motivated by their ideology have successfully taken a potentially helpful option away from families whose pillow angels might benefit. (See this activism Web site. )
A collective agenda/ideology is being shoved down the throat of all individuals with disabilities, whether it serves them as individuals or not. This is disturbing in a society that believes strongly in the well-being of children and in individual rights. Pillow angels should not be deprived of this treatment when their parents and their doctors have carefully considered the options and concluded that it would be of benefit.

ここにあるのもまた、障害者運動は
障害者全体のイデオロギーのために個々の障害児の幸福や権利を顧みず、
親の愛情ある決断を邪魔し、利益のある治療を子どもたちから奪っている、との非難。

これまでA療法/成長抑制を認める立場の人に共通していると私が思うのは、

① 重症重複(特に知的)障害者はその他の障害者とは別の存在だと考えている。
② 別の存在なのだから、別扱いすべきだと考えている。(「権利」ではなく「最善の利益」)
③ 親の愛情を疑わない。つまり親子の間に利益や権利の衝突があるとは考えない。
④ 親の決定権を絶対視する。
⑤ 重症児は親がずっとケアするものだと考えている。


もちろん、一番根っこにあるのは「別の存在だから別扱いすべきだ」の点で、
A事件の根っこは「重症(特に知的)障害児・者はその他の障害者とは別なのか否か」という問いなのだと
改めて痛感させられます。

別だと考える人にとっては、これは個々の「最善の利益」の問題であり
別ではないと考える人にとっては、万人の「権利」の問題だということになる。

で、ここで大事だと私が思うのは、
後者の人は「別ではない」と考えると同時に「別だと考えるべきではない」と考えてもいること。

言いかえると、それは、
原理原則を守ろう、「守るべき原理原則」というものを捨てまい、という姿勢でもある。

私がずっと疑問に感じているのは、
もともと、これは「権利」か「最善の利益」かという選択の問題ではなく、
本当は検討の位相の違い、順番の問題ではないのか、と。

「利益vsリスク」論は前提がおかしい(2008/2/6)でも書いたのだけど、

論理的な検討の段階として、「利益vsリスク」検討よりも前に
「それは条件によっては許されることか、それとも条件を問わず許されないことか」
という問いの段階が、まず、あるはずなんじゃないだろうか。

まず「条件を問わずに許されないことか、条件次第ではやっても良いことか」が問われ、
そこで後者だと判断された場合にのみ、その「条件」の検討が行われる。
その基準が「最善の利益」――。

「利益vsリスク」の検討というのは、本来そういうものじゃないのだろうか。

上位にある問いだからこそ人権概念が万人にあてはまる原理原則となるのは当たり前で、
むしろ、生命倫理の議論から、その原理原則を外してしまおうとする人たちが、
わらわらと沸いて出てきていることの方が問題なのだと私は思うのだけど、

その動きは、ちょうど、
科学とテクノロジーが可能にしていく多くのことを背景に、
「できるか、できないか」の問いだけがクローズアップされて
「できるとしても、やるべきではないことか」の問いが
時代遅れで無意味な問いであるかのように扱われ、
幼稚で皮相的な功利的な理屈で強引に押しのけられようとしていることと
きれいに並走しているのだと思う。

そうして、それら諸々の勢いを借りて、世の中は、
「殺してもいい人」と「殺してはいけない人」を平然と
線引きして痛痒を感じないような方向に向かっていこうとしている……。

そんなふうに、Ashley事件はShiavo事件と繋がっている――。

         ―――――

Tarzianの非難を受けて、Not Dead Yet のStephen Drakeがブログで反論しています。

「障害者とも呼べないほど重度の人の代弁を障害者がするな」論法は
昔からあった、と面白い表現を使って切り捨てているのですが、
一応、Ashleyの人権侵害はWPASだって認めたじゃないか、とも。