ACからEva Kittayそして「障害児の介護者でもある親」における問題の連環
まず、アダルトチルドレン(AC)という概念については
私は上記のような問題を考える際にとても有益だと感じつつも、
日本ではあまりにネガティブな解釈が先行している用語のように思えて
ACという言葉そのものを使うことに長い間ためらいがあった。
私は上記のような問題を考える際にとても有益だと感じつつも、
日本ではあまりにネガティブな解釈が先行している用語のように思えて
ACという言葉そのものを使うことに長い間ためらいがあった。
しかし信田氏がその辺りのことを書いている部分を読んでいると、
例えばホスピスが長く「ガンの人が死にに行く場所」と誤解されていたのと同じで、
よく知らない人がレッテル化して誤解しているにせよ、自分自身はレッテルとして扱うのではなく
きちんと概念として理解して、その概念がものを考えるために有益なのであれば
それでいいのだと、やっとすっきり納得できた。
例えばホスピスが長く「ガンの人が死にに行く場所」と誤解されていたのと同じで、
よく知らない人がレッテル化して誤解しているにせよ、自分自身はレッテルとして扱うのではなく
きちんと概念として理解して、その概念がものを考えるために有益なのであれば
それでいいのだと、やっとすっきり納得できた。
「認めた」というところがキモなんだと思う。
ただ「そう思うひと」なのではなくて、
自分にとって苦しくてたまらなくて、だからずっと否認してきた事実と
ついに正面から向き合って、事実を事実として受け止める勇気を持ち、
その苦しい事実を「引き受け」て生きていこうとしている人、なのだろうと思う。
自分にとって苦しくてたまらなくて、だからずっと否認してきた事実と
ついに正面から向き合って、事実を事実として受け止める勇気を持ち、
その苦しい事実を「引き受け」て生きていこうとしている人、なのだろうと思う。
だから「認める」までが長く苦しいのではあるけれど、
そのように「認める」ことは到達点というよりもスタートであり、
それならACは誤解されているように「すべてを親のせいにして甘えている人」ではなく、
むしろ、そこから抜け出すためのスタートラインに自覚的に立とうとする人なのだ――。
そのように「認める」ことは到達点というよりもスタートであり、
それならACは誤解されているように「すべてを親のせいにして甘えている人」ではなく、
むしろ、そこから抜け出すためのスタートラインに自覚的に立とうとする人なのだ――。
そんなふうに考えて、自分の中でAC概念を整理することができた。
その上で、以下の信田氏の言葉を読むと、ACという言葉の告発性は
そのままAshley事件が提起する問題にぴたりと沿ってくるように思えた。
そのままAshley事件が提起する問題にぴたりと沿ってくるように思えた。
……暗黙の了解事項としての「親孝行」という価値を否定することにつながり、「親の支配」を告発することで親子の愛情という美しい幻想を崩すことにもつながっていくことばなのである。
(p.74)
(p.74)
だからこそ、大事なのは誰かがACかどうかというレッテルとしてACを捉えることではなく、
ACという概念によって親子の関係性を捉えなおすことの方なのだと思う。
ACという概念によって親子の関係性を捉えなおすことの方なのだと思う。
あえて次のように主張したい。「親密な関係は危険である」と。
(p.141)
(p.141)
「子を思う親の深く美しい愛」にも「献身的に尽くす介護者の家族愛」にも
その危険は潜んでいる。
その危険は潜んでいる。
その危険性が潜んでいるという事実を事実として認めれば、
「親の愛」や「介護者の献身」はそれだけで何かを正当化する根拠にはなり得ない。
「親の愛」や「介護者の献身」はそれだけで何かを正当化する根拠にはなり得ない。
だから、そんな危険が潜んでいる事実を、支配する権力をもつ側は認めようとはせず、
むしろそれを支配のツールとして使うのだろう。
むしろそれを支配のツールとして使うのだろう。
殴って力で抑えつけることそのものが権力なのではなく、それを暴力と呼ぶことを禁じ、「愛情」「しつけ」などと定義することが権力である。ある状況を名づけること、そしてそれ以外の定義を許さないこと。それこそが権力だろう。つまり権力とは「状況の定義権」のことである。
(p.153)
(p.153)
Eva Kittayが「愛の労働あるいは依存とケアの正義論」で書いているように
支配する側の人間は差異を創りだすことができ、その違いを支配と不平等を正当化するために使うことができる。なぜなら、彼らは自分の視点を、問題とその解決の両方を定義する視点とすることができるからだ。
(p.47)
(p.47)
そうしたカラクリの中で、人が依存状態にあることや依存状態になること、
そうした人のケアを担う人もまた依存を余儀なくされることの両方が、
自立した自由な人間だけを前提とする社会では「例外的な」こととみなされ
社会正義や政治哲学の議論の中でカウントされてこなかった。
そうした人のケアを担う人もまた依存を余儀なくされることの両方が、
自立した自由な人間だけを前提とする社会では「例外的な」こととみなされ
社会正義や政治哲学の議論の中でカウントされてこなかった。
それに対して、依存状態もそれがケアされる必要も、
そのケア役割を担う人がケアを必要とする依存に陥ることも決して例外ではなく、
人間であるということに伴う不可避な状況ではないか、と反旗を翻すのが
Kittayの唱える「みんな誰かお母さんの子ども」という概念。
そのケア役割を担う人がケアを必要とする依存に陥ることも決して例外ではなく、
人間であるということに伴う不可避な状況ではないか、と反旗を翻すのが
Kittayの唱える「みんな誰かお母さんの子ども」という概念。
Kittayはもう1つ、面白い指摘をしている。
(ついでにいえば、Ashleyの父親が語る娘の介護は、無意識のうちに
第一義には母親と祖母らによって、次には恐らく使用人である介護者によって
担われることを前提に語られているのだと思う。それでいて彼は
自分もAshleyの介護者の立場でものを言うことに疑問を持たない)
第一義には母親と祖母らによって、次には恐らく使用人である介護者によって
担われることを前提に語られているのだと思う。それでいて彼は
自分もAshleyの介護者の立場でものを言うことに疑問を持たない)
つい先日、古い友人の口から、とても象徴的な言葉を聞いた。
思うように妻が自分を大事にしてくれないことを、かこちつつ彼が言ったのは
「経済的に自立した女というものは、まったく始末が悪いよな」。
思うように妻が自分を大事にしてくれないことを、かこちつつ彼が言ったのは
「経済的に自立した女というものは、まったく始末が悪いよな」。
彼は同居している母親のことを語りつつ、いとも簡単にこうも言った。
「母親が寝たきりにでもなったら、そうだな、その時は仕事をやめて介護だな」。
もちろん彼が言う「仕事」とは彼自身の仕事ではない。
その場にいない、彼の妻の仕事のことだ。
「母親が寝たきりにでもなったら、そうだな、その時は仕事をやめて介護だな」。
もちろん彼が言う「仕事」とは彼自身の仕事ではない。
その場にいない、彼の妻の仕事のことだ。
ムカついた瞬間、私の頭には底意地の悪い言葉が浮かんだ。
「でも、奥さんの方が安定した仕事だし収入だって多いでしょ。それなら
アンタの方が辞めて自分の母親の介護をする方が理にかなってるよね」
「でも、奥さんの方が安定した仕事だし収入だって多いでしょ。それなら
アンタの方が辞めて自分の母親の介護をする方が理にかなってるよね」
でも言わなかった。それは、コンプレックスが強く人格が未成熟な友人の
最大の弱点を突くことだと、私は長い付き合いの中で十分に知っていたから。
(その代わり、別の弱点を深々とえぐってやることで憂さを晴らしたけど)
最大の弱点を突くことだと、私は長い付き合いの中で十分に知っていたから。
(その代わり、別の弱点を深々とえぐってやることで憂さを晴らしたけど)
「状況の定義権=権力」を脅かされる恐怖が
例えば「妻がナニナニしてくれない」「妻にバカにされた」「妻に負けた」
「子どもがご飯を食べてくれない」「一生懸命やっても通じない」などの
被害者意識として意識されているというのだ。
例えば「妻がナニナニしてくれない」「妻にバカにされた」「妻に負けた」
「子どもがご飯を食べてくれない」「一生懸命やっても通じない」などの
被害者意識として意識されているというのだ。
そのように自分を怯えさせた対象に対する屈辱感と怒りから
彼らは暴力をふるい屈服させようとするのだと信田氏は言う。
彼らは暴力をふるい屈服させようとするのだと信田氏は言う。
それは、相手を独立したひとつの人格として認めることができず、
自分の人格の延長のように捉え、自分と同一視してしまう幼児性が
あらかじめ存在しているからではないのだろうか。
それが「甘える」ということでもあるわけだし。
自分の人格の延長のように捉え、自分と同一視してしまう幼児性が
あらかじめ存在しているからではないのだろうか。
それが「甘える」ということでもあるわけだし。
知的レベルが高いとされる職業や立場にありながら
その一方で唖然とするほどの幼児性、未熟な人格をむき出しにする人が
男女を問わず、そろそろ年齢も問わず、増えてきているんじゃないのかと感じるとき、
そこにも、本当はACの問題が潜んでいるのでは、と思ってみる。
その一方で唖然とするほどの幼児性、未熟な人格をむき出しにする人が
男女を問わず、そろそろ年齢も問わず、増えてきているんじゃないのかと感じるとき、
そこにも、本当はACの問題が潜んでいるのでは、と思ってみる。
例えば子どもと姉妹や親友のように密着しつつ、
その密着性によって無邪気な支配を及ぼしている親や
「子の幸せのため」を盾に子の将来までをもコントロールする親なども含め、
親が子どもに対して無自覚なままに支配的であることの背景には、実は
親もまたその親からそのように育てられたために十分な自尊感情が抱けず
未熟な人格のまま、子どもに与えるよりも求めることに忙しく、
実際は親の方が子に甘えかかり、寄りかかろうとしている事実が潜んでいるのでは?
その密着性によって無邪気な支配を及ぼしている親や
「子の幸せのため」を盾に子の将来までをもコントロールする親なども含め、
親が子どもに対して無自覚なままに支配的であることの背景には、実は
親もまたその親からそのように育てられたために十分な自尊感情が抱けず
未熟な人格のまま、子どもに与えるよりも求めることに忙しく、
実際は親の方が子に甘えかかり、寄りかかろうとしている事実が潜んでいるのでは?
まだ、それらの繋がり方をうまく説明できないのだけど、
「障害のある子どもの介護者でもある親」という位置に立っている人は同時に
抑圧された者であり、抑圧された者の代弁者・保護者でもあり、抑圧する者でもありうる。
そのことの内に、ACの問題にもつながり得る親子の関係性の問題や、
社会が女性をどのように遇してきたかという問題や、
社会が障害児・者をどのように遇してきたかという問題が
連環して、巡り巡っているんじゃないのかなぁ……という気がしている。
「障害のある子どもの介護者でもある親」という位置に立っている人は同時に
抑圧された者であり、抑圧された者の代弁者・保護者でもあり、抑圧する者でもありうる。
そのことの内に、ACの問題にもつながり得る親子の関係性の問題や、
社会が女性をどのように遇してきたかという問題や、
社会が障害児・者をどのように遇してきたかという問題が
連環して、巡り巡っているんじゃないのかなぁ……という気がしている。
そこのところの絡まりを逆にぐるぐると解きほどいていく努力によって、
Kittayさんがいう「依存労働の脱ジェンダー化」による
女性や、依存状態になった人・彼らをケアする人も含めた真の平等・社会正義、
また自分が抑圧されたために起こる抑圧や共依存のない関係性といったものへの
ヒントが見えてくるんじゃないのかと思うのだけど、
Kittayさんがいう「依存労働の脱ジェンダー化」による
女性や、依存状態になった人・彼らをケアする人も含めた真の平等・社会正義、
また自分が抑圧されたために起こる抑圧や共依存のない関係性といったものへの
ヒントが見えてくるんじゃないのかと思うのだけど、
片や、急速に「虐待的な親のような場所」になっていく世の中、
そういうことを考える時間と人が、まだ残されていますように……。
そういうことを考える時間と人が、まだ残されていますように……。