ACからEva Kittayそして「障害児の介護者でもある親」における問題の連環

信田さよ子「愛しすぎる家族が壊れるとき」を読み、
A事件が提起する親子の関係性や介護の問題を改めて考えた。

まず、アダルトチルドレン(AC)という概念については
私は上記のような問題を考える際にとても有益だと感じつつも、
日本ではあまりにネガティブな解釈が先行している用語のように思えて
ACという言葉そのものを使うことに長い間ためらいがあった。

しかし信田氏がその辺りのことを書いている部分を読んでいると、
例えばホスピスが長く「ガンの人が死にに行く場所」と誤解されていたのと同じで、
よく知らない人がレッテル化して誤解しているにせよ、自分自身はレッテルとして扱うのではなく
きちんと概念として理解して、その概念がものを考えるために有益なのであれば
それでいいのだと、やっとすっきり納得できた。

信田氏のアダルトチルドレンの定義は
「現在の自分の生きづらさが親との関係に起因すると認めたひと」(p.73)。

「認めた」というところがキモなんだと思う。

ただ「そう思うひと」なのではなくて、
自分にとって苦しくてたまらなくて、だからずっと否認してきた事実と
ついに正面から向き合って、事実を事実として受け止める勇気を持ち、
その苦しい事実を「引き受け」て生きていこうとしている人、なのだろうと思う。

だから「認める」までが長く苦しいのではあるけれど、
そのように「認める」ことは到達点というよりもスタートであり、
それならACは誤解されているように「すべてを親のせいにして甘えている人」ではなく、
むしろ、そこから抜け出すためのスタートラインに自覚的に立とうとする人なのだ――。

そんなふうに考えて、自分の中でAC概念を整理することができた。

その上で、以下の信田氏の言葉を読むと、ACという言葉の告発性は
そのままAshley事件が提起する問題にぴたりと沿ってくるように思えた。

……暗黙の了解事項としての「親孝行」という価値を否定することにつながり、「親の支配」を告発することで親子の愛情という美しい幻想を崩すことにもつながっていくことばなのである。
(p.74)

だからこそ、大事なのは誰かがACかどうかというレッテルとしてACを捉えることではなく、
ACという概念によって親子の関係性を捉えなおすことの方なのだと思う。

あえて次のように主張したい。「親密な関係は危険である」と。
(p.141)

閉じられた対の関係が嗜癖化しやすくなっている。
(p.141)

「子を思う親の深く美しい愛」にも「献身的に尽くす介護者の家族愛」にも
その危険は潜んでいる。

その危険性が潜んでいるという事実を事実として認めれば、
「親の愛」や「介護者の献身」はそれだけで何かを正当化する根拠にはなり得ない。

このあたりは親と子の関係だけでなく介護する者とされる者との関係にも
夫婦の関係や、最近問題になっているデートDVの関係にも当てはまるのだろう。

だから、そんな危険が潜んでいる事実を、支配する権力をもつ側は認めようとはせず、
むしろそれを支配のツールとして使うのだろう。

信田氏はミシェル・フーコーの権力についての記述を引用した後で、
以下のように書いている。

殴って力で抑えつけることそのものが権力なのではなく、それを暴力と呼ぶことを禁じ、「愛情」「しつけ」などと定義することが権力である。ある状況を名づけること、そしてそれ以外の定義を許さないこと。それこそが権力だろう。つまり権力とは「状況の定義権」のことである。
(p.153)

このように読んでくると、
性神話、親の愛情神話、家族介護神話が
女に育児や介護を背負わせるための支配のツールとして使われてきたカラクリが
目の前にくっきりと立ち現われて来るし、

Eva Kittayが「愛の労働あるいは依存とケアの正義論」で書いているように

……このように依存労働がジェンダー化され、私事化される傾向が意味するのは、第一に、男性はほとんどケアの責任を共有してこなかった(少なくとも自分と同じ階級の女性ほどには)ということ、そして、第二に、政治的、社会的正義の議論は、男性の公的生活を起点とし、ジェンダー間および階級間での依存労働の公平な分担という問題をほとんど考えてこなかったということである。その起点が、道徳理論や社会理論、政治理論を規定するだけでなく、公共政策の枠組みをも決定してきた。
(p.30)

 支配する側の人間は差異を創りだすことができ、その違いを支配と不平等を正当化するために使うことができる。なぜなら、彼らは自分の視点を、問題とその解決の両方を定義する視点とすることができるからだ。
(p.47)

そうしたカラクリの中で、人が依存状態にあることや依存状態になること、
そうした人のケアを担う人もまた依存を余儀なくされることの両方が、
自立した自由な人間だけを前提とする社会では「例外的な」こととみなされ
社会正義や政治哲学の議論の中でカウントされてこなかった。

それに対して、依存状態もそれがケアされる必要も、
そのケア役割を担う人がケアを必要とする依存に陥ることも決して例外ではなく、
人間であるということに伴う不可避な状況ではないか、と反旗を翻すのが
Kittayの唱える「みんな誰かお母さんの子ども」という概念。

Kittayはもう1つ、面白い指摘をしている。

……左派は――ここでは私はフェミニストの立場はいったん置いておく――、福祉の問題を、本質的に経済問題・貧困問題にどう対処するかという問題として捉えるが、右派はそれを社会問題、すなわち家父長制的結婚と市場経済のどちらの支配も拒否する女性のふらちな態度の問題とみなす。
(p.268:ゴシック部分、原文は傍点)

もっとも、「どちらも、ケアの担い手としての女性の無償労働を想定しながら
その値打ちを認めない、これまでの社会的協働の概念を疑問視しない」(p.268)のだけど。

(ついでにいえば、Ashleyの父親が語る娘の介護は、無意識のうちに
第一義には母親と祖母らによって、次には恐らく使用人である介護者によって
担われることを前提に語られているのだと思う。それでいて彼は
自分もAshleyの介護者の立場でものを言うことに疑問を持たない)

つい先日、古い友人の口から、とても象徴的な言葉を聞いた。
思うように妻が自分を大事にしてくれないことを、かこちつつ彼が言ったのは
「経済的に自立した女というものは、まったく始末が悪いよな」。

彼は同居している母親のことを語りつつ、いとも簡単にこうも言った。
「母親が寝たきりにでもなったら、そうだな、その時は仕事をやめて介護だな」。
もちろん彼が言う「仕事」とは彼自身の仕事ではない。
その場にいない、彼の妻の仕事のことだ。

ムカついた瞬間、私の頭には底意地の悪い言葉が浮かんだ。
「でも、奥さんの方が安定した仕事だし収入だって多いでしょ。それなら
アンタの方が辞めて自分の母親の介護をする方が理にかなってるよね」

でも言わなかった。それは、コンプレックスが強く人格が未成熟な友人の
最大の弱点を突くことだと、私は長い付き合いの中で十分に知っていたから。
(その代わり、別の弱点を深々とえぐってやることで憂さを晴らしたけど)

信田氏は、DV加害者の男性や、子どもを虐待している母親をカウンセリングしていると、
加害者の中にある被害者感情に気づかされるという。

「状況の定義権=権力」を脅かされる恐怖が
例えば「妻がナニナニしてくれない」「妻にバカにされた」「妻に負けた」
「子どもがご飯を食べてくれない」「一生懸命やっても通じない」などの
被害者意識として意識されているというのだ。

そのように自分を怯えさせた対象に対する屈辱感と怒りから
彼らは暴力をふるい屈服させようとするのだと信田氏は言う。

それは、相手を独立したひとつの人格として認めることができず、
自分の人格の延長のように捉え、自分と同一視してしまう幼児性が
あらかじめ存在しているからではないのだろうか。
それが「甘える」ということでもあるわけだし。

知的レベルが高いとされる職業や立場にありながら
その一方で唖然とするほどの幼児性、未熟な人格をむき出しにする人が
男女を問わず、そろそろ年齢も問わず、増えてきているんじゃないのかと感じるとき、
そこにも、本当はACの問題が潜んでいるのでは、と思ってみる。

例えば子どもと姉妹や親友のように密着しつつ、
その密着性によって無邪気な支配を及ぼしている親や
「子の幸せのため」を盾に子の将来までをもコントロールする親なども含め、
親が子どもに対して無自覚なままに支配的であることの背景には、実は
親もまたその親からそのように育てられたために十分な自尊感情が抱けず
未熟な人格のまま、子どもに与えるよりも求めることに忙しく、
実際は親の方が子に甘えかかり、寄りかかろうとしている事実が潜んでいるのでは?

まだ、それらの繋がり方をうまく説明できないのだけど、
「障害のある子どもの介護者でもある親」という位置に立っている人は同時に
抑圧された者であり、抑圧された者の代弁者・保護者でもあり、抑圧する者でもありうる。
そのことの内に、ACの問題にもつながり得る親子の関係性の問題や、
社会が女性をどのように遇してきたかという問題や、
社会が障害児・者をどのように遇してきたかという問題が
連環して、巡り巡っているんじゃないのかなぁ……という気がしている。

そこのところの絡まりを逆にぐるぐると解きほどいていく努力によって、
Kittayさんがいう「依存労働の脱ジェンダー化」による
女性や、依存状態になった人・彼らをケアする人も含めた真の平等・社会正義、
また自分が抑圧されたために起こる抑圧や共依存のない関係性といったものへの
ヒントが見えてくるんじゃないのかと思うのだけど、

片や、急速に「虐待的な親のような場所」になっていく世の中、
そういうことを考える時間と人が、まだ残されていますように……。