サンデル教授から「私の歎異抄」それからEva Kittayへ

前のエントリーで書きましたが、
サンデル教授の「これからの『正義』の話をしよう」を読みながら思い出されて、
本棚から引っ張り出したのが紀野一義「私の歎異抄」
(もう文庫しかないみたいですね。私のは93年の初版16刷ハードカバー。)

読み返すたびに著者の根深い女性蔑視にはなはだしく不快になるのだけれど、
きっと女性に恨みつらみやコンプレックスの多い人生だったのだろう、と決めつけることで、
そこの点だけは“ならぬ堪忍”を自分に強いつつ、何度も読み返してきた本の1つ。

このブログで、英語圏のラディカルな生命倫理の議論、
特に合理合理でゴリゴリと押してゆく論理のパズルのような議論について考えていると、
脂っこく噛みごたえのある洋食続きで弱った胃袋が
「そろそろ滋味のある和食でいたわってくれろ」と助けを求めるかのように
人間の心の襞や綾を丁寧に描いて味わい深い小説や
日本の死生観・自然観について書かれたものを読みたくなる。

……人間は……(略)……無量の光、無量のいのちである大いなるものに生かされているのであることが完全に理解されたとしても、理解され、一体となればなるほど、自己の我執の根の深さを思わせられるのである。自分の中にどうにもならぬものがうごめいていることを思い知らされるのである。この自分のどうしようもなさを思い知らされた人間は、自分のことをどうにもならぬ「悪人」と感ずるのではないか。
それは、宿業の恐ろしさを身にしみて感じた人間のことであるといってもよい。
いわゆる「善人」は、文字通り「よい人」であって、日常生活においても、さわりのよい、常識的に人々が善と考えることを抵抗なく実行できる人のことである。この人々は宿善、すなわち、過去の善縁によって善事を行なわしめられているのにすぎないのであるが、それを、どこやら、自分の力で善いことをしていると抵抗なく考えることのできる「幸福なる人」である。
私は、そういう人はそれでよいと思う。親鸞もそういう生き方がいけないといっているのではない。いいわるいの問題ではない。そうであるか、そうでないかだけの問題である。
ただ、自分の力で善いことをしていると抵抗なく考えることのできるこの幸福なる人は、過去の悪縁が働いてきた時は、また抵抗なく「どうしようもなかったのだよ」と無反省に過ぎて行ってしまうであろう。
しかるに「悪人」は、そう無反省に過ぎていくことはできない。いわゆる「悪人」ももちろん善事を行う。しかし本人はとても善事を行っているというような意識はない。……(略)……「悪人」の意識の根底にあるのは「自分は極重悪人だ」という気持ちである。どうしても無我になりきれないかなしみ、無私になりきれない憤ろしさがある。もちろんそれを人に言うのではない。言えば、「自分を極重悪人と思う反省の深さがわたしにはある」という驕慢心が忍び込む。そのことが悪人にはすぐにわかる。わかるからよけいに無我になれなくなる。だから言わぬのである。
(p.73)

ここは、悪人正機説の要諦のような下りなので、
読むたびに、その時々のこちらの精神状態によって、いろいろに受け止め直すのだけれど、
今回はAshley事件からこちら考え続けている「親のプライバシー権」の問題に重なった。

Ashleyの父親はブログで、loving parentsとして我々はこれを考えたのだと
繰り返し書いている。このことに、私は当初から違和感があった。
本当に愛情深い親は、それをわざわざ言葉にして念押しする必要も
感じないものなのだよ……みたいな。

もちろん、ここでは、もともと、それを訴えるためのブログなのだという点は
いくぶん差し引かなければならないだろうけど、それにしても、

親が、子の身体を不必要に侵害することに微塵も疑いを抱かないばかりか、
親と子の間にある利益の相克、権利の衝突に気付きもせず、
したがって親であるということそのもの持つ抑圧性や暴力性にも無感覚なまま、
こんなにも無邪気に、子への愛を盾に取り、言い訳に使い、
なおかつ自分は「こんなにも愛情ある良い親なのだぞ」と胸を張る時に、

そして、そこに世間が
「さわりのよい、常識的に人が善と考える」「良い親」を見て感動し、手を叩く時に、

私は、改めて、
「親は一番の敵だ」と言い放ってくれた日本の障害者運動の先駆性、腹の据わり方のすごさを思う。
親や介護する側に立つ人が、そこに潜む支配―被支配の関係に自覚的であるということの重要さを思う。

10月に来日した哲学者のEva Kittay氏は講演で
介護者の「透明な自己」という表現を使っていた。

ここには2重の意味があるということを考えながら私は聞いたのだけれど、たぶん、
その1つは、支配せず、介護される者の側に立ち切った介護者ということ。

それからもう1つは、依存者をケアする役割を引き受けることによって
自分自身のニーズや様々な欲求を捨てざるを得ず、
透明になるほど抑圧された介護者の自己。

介護者にとって前者は理想とすべきあり方でありながら、
それを実現しようと努めれば努めるだけ、介護者は後者の抑圧を引き受けることとなる。
介護者はみんな多かれ少なかれ、それぞれの事情の中で、そのジレンマの中に身を置いている。

そのジレンマを、介護者自身も、そして社会も
事実そこにあるものとして認識することの必要と、
その事実を排除したまま論じられてきた社会正義・政治哲学が
その事実を組みこんで新たに考え直されなければならないこと。

Kittay氏の理論が向かっているのはそういうところではないかと思う。

再び、「私の歎異抄」から。

「もういい、仕方の無い事ではないか」ということばは、安易に吐かれると大変危険であるが、悲しみが昇華したあと、あるいは、苦しみ多き長い人生を歩き通して終着点近くなった人の口から言われると、仏から来たことばのような安らぎがある。人間のぶざまさ、足りなさ、恰好の悪さ、どうしようもなさをしみじみと思い知ったとき、もう大きな力に促されるままに生きてゆくほかないな、という自然法爾(じねんほうに)の世界につながってゆくことになるのである。
(P.222)

 三島由紀夫は恥をさらしたという人がある。その人は恥をさらさぬのであろうか。おそらくそういうことをいう人は、恰好よく生き、自らを恰好のいい人間と思っているから、そう言うのであろう。しかし、恥をさらして何が悪いか。恥をさらさぬ人間というものがあろうか。そういう人間は上手に逃げているだけではないのか。……(略)……
 人間が恥をさらさずにどうして生きてゆけるのか。病んで身動きもできず、激痛に苦しめられている時、恰好よく、恥をさらさずに生きてゆけるか。老いてなおかつ美しく生きてゆけるか。脳の一部の血管が切れただけで、もう人間は恥をさらすのではないか。
 親鸞が「凡夫」といったのは、「人間は恰好の悪い、恥さらしの存在である」ということではないのか。
(p.235)


Kittay氏が提示した、もう1つの重要な概念は「みんな誰かお母さんの子ども」。

これは要するに、親戚のオバサンなんかが、
大人になって“いっぱし”なことを言う甥っ子とかに向かって
「あたしゃ、昔、アンタのオムツを替えてやったんだからね」とピシャリと喰らわせる、アレですね。

今でこそ「恰好よく生き、自らを恰好のいい人間と思っている」高みから頭の良さにゴーマンかまして、
頭の悪い障害者は動物以下だなどとホザいているPeter SingerやTH二ストだって、

生まれた時には、オシッコもウンコも垂れ流しだったやないか。
お腹がすいたら、誰かが来てくれるまで無力にピーピー鳴いてたやないか。
お母さんに全面的に依存した存在だったやないかい。
お母さんがケアしてくれたから今のアンタがあるんと違うんかい?

さも自分は優秀だから誰の力も借りずにここまで来たんだ……みたいな顔しくさってからに。

人間はね。み~んな、そういう無力な存在として生まれてくるの。
そして、そういう無力な存在になって、死んでいくの。
その間を生きていても、ちょっと何かがあると、すぐに誰かのケアが必要な状態になる。
人間てのは、アンタも私も、み~んな、そういう存在なの。

そういうことを自覚し、ちったぁ謙虚になって、そんなゴーマンかましてる暇に、
みんながそういう存在として生きられるような社会を考えたら、どないやねん、こら!

――と、Kittayおばさんは
「みんな誰かお母さんの子」によって言いたいんじゃないかなぁ……。

――と、spitzibaraおばさんは考えるのだけどね。

               ―――――

もう1つ、上記の最後の2つの引用は、
「死の自己決定権」を唱えている一部の人にも当てはめて読めるような気がする。
恰好よい自分として生きられないなら、生きる価値がないと思う人たちに――。

この2つの個所を読みながら「くぐりぬける」という言葉が私の頭には浮かんだ。

中途障害を負った人や、障害児の親などが、障害を負ったり、子どもの障害を知った直後には
大きな衝撃を受け、自殺を考えるほどに打ちのめされるけれども、それでも多くの人は、その後、
もだえ苦しむ葛藤をくぐりぬけて、弱い人間でしかない自分や子どもを引き受けて
生きていこうと思える場所に這い出してくる。

「くぐりぬける」ということを経ることで、その時、人は、
くぐりぬける必要が生じる前よりも深いところにある何かに触れるんじゃないだろうか。

もはや「恰好をつける」ことも「上手に逃げている」こともできなくなった人間が
もう死んでしまいそうなところを、やっとの思いで命からがら、くぐりぬけた時に、
「もういい、仕方のないことではないか」と以前の自分への執着を解き放ち、
今のありのままの自分として生きることを受け入れることができるのではないんだろうか。

「死の自己決定権」を認めて自殺幇助を合法化し、
例えば事故でマヒを負った23歳の青年の自殺幇助を認めるのは、
彼の持つ「くぐりぬける」力を信頼しないということだ。

人はみんな、全面的に無力な依存者として生まれ
誰かに温かくケアしてもらって生き、大人になってきたのならば
本当はみんなに「くぐりぬける」力は備わっているんじゃないだろうか。

必要なのは、くぐりぬけようとする前から諦めることに手を貸すのではなく、
その人が生まれてきた時に誰かがケアしてあげたように、
その人がくぐりぬけることにも誰かが支える手を差し伸べること、
誰にとっても、そういう社会であろうとすることじゃないのだろうか。