「これからの『正義』の話をしよう」メモ


私は
何らかの体系的な学問とか知識があって、それを土台にAshley事件を考えているというのではなくて、

最初にA事件との出会いがあって、
その出会いによって、そこから大きな世界を覗き見る小さな窓を得たことになり、
そこから覗き見えることを目につくままにチマチマ追いかけたり
考えてみたりしているに過ぎないので、

そういう窓のこちら側から、初めて外の広々とした空間に出て、
道徳哲学という大きな平原を見はるかす高台に立ち、
あそこが功利主義、あっちに見えるのはカントが描いた風景、と
1つ1つ指差しながら懇切丁寧なガイドさんに案内してもらったようで
分かりやすい風景を鳥瞰する爽快感と
“道徳哲学観光ツアー”的ワクワク感があった。

もちろん、それら風景の場所を直接訪れたことはないのだから、
この本について何ごとかを語るには私は圧倒的に知識を欠いているし、

ただの直感的な感想とか印象程度のことを追加しながら、
特に印象に残った個所を、いくつかメモ的に。


 もっとも、カントはわれわれがつねに理性的に行動できるとか、自律的に選択できると言っているわけではない。そうできるときもあれば、できないときもある。カントはただ、人間には理性の能力と自由の能力があり、この能力は人類共通のものだと言っているだけだ。
(p.141)

カントが言っているのが、個々人の能力についてではなく
むしろシュトルクとか立岩氏が「人間とは人間から生まれたもの」というのと同じ意味で、
人間に共通する資質について言っているだけであり、

それが種としての人間と動物の間に一線を画するのだからこそ、
そのような種である人類の一人として、人は自律的に義務にしたがって生きよ、と
説いているのだとしたら、

パーソン論がそういうのを個々人に当てはめて、
それぞれの人の道徳的な地位を認められる資格審査の物差しに流用するというのは、
もともと全然、筋が違ってない?

パーソン論の論拠はカントのこういう理性の定義だと、
たしか What Sortsブログの議論で読んだような気がするのだけど、違うかもしれない。
元祖がトゥーリーだというのは、ここで読んだ。)


 近代科学の誕生とともに、自然を意味のある秩序と見る見方は影を潜めた。代わって、自然はメカニズムとして理解されるようになり、物理的法則に支配されると見られるようになった。自然現象を目的、手段、最終結果と関連づけて解釈するのは無知ゆえの擬人化した見方とされるようになった。
(p. 245)

① の部分とか、ここのところとか、
総じてサンデル先生がカントを解説してくれる部分を読んでいたら、去年、
大統領生命倫理評議会の「人間の尊厳と生命倫理」と「おくりびと」とか
「納棺夫日記」と吉村明の最期とかで書いたようなことを、また考えた。

後者のエントリーでちょっと触れた紀野一義氏の「私の歎異抄」を読み返したくなり、
実際に、「これからの『正義』」の直後に、また読み返してみたりもした。

30代の頃に、般若心経の解説書を何冊か集中的に読んだことがあって、
その中のどの本に書いてあったのか、それが本当に書いてあったことなのか、
それらを読んで私が頭に勝手にでっち上げた解釈なのか(たぶん、これのような気がする)
もう今となってはよく分からないのだけど、

カントが言っている自律的な生き方としての自由というのは、
「自由」よりも、仏教の「自在」の方により近い……とか?

欲望を満たすための自由ではなく、
欲望・我執から解放されて初めて到達することのできる自在。

人が、自分を突きぬけて、自分を超えた何か大きなものと繋がり、
その大きなものに突き動かされるように、
「やりたい」という欲望でも「やらなければ」という意思でもなく、
大いなるものの促しによって、ただ「やらずにいられないから」やる、
ただ、ひたすらに、ひたむきに、やる、という境地に至った時に、

その時々に、己の心の欲するままにふるまって、
それがそのまま善であるという自在――。

別の言葉で言えば、融通無碍の涅槃の境地。
または、老子のいうタオ? (私が読んだのはもちろん老子ではなく加島祥造

その、自分とか個というものを突き抜けた先にある大いなるものというのが、
自然の秩序であったり、そこに繋がる人間性であったり、
はたまた共通善(これはアリストテレスだっけ?)であったりするのでは?

そういう生き方という同じ到達点に、
欲望を捨て我執を放れて大いなるものに身をゆだね切ることによって
そこに至れと仏教が説いているのに対して、カントはそれを
理性により自律的に選びとることによって至れ、と言っているような……。

全くの見当違いなのかもしれないけど、なんとなく、そんなことを。


③その他、

自然的義務と異なり、連帯の責務は個別的であって、普遍的ではない。そこにはわれわれが負う道徳的責任も含まれるのだが、この責任は理性的な人間そのものではなく、一定の歴史を共有する人間に対する責任である。……(略)……その道徳的な重みの源は、位置ある自己を巡る道徳的省察であり、私の人生の物語は他人の物語とかかわりがあるという認識なのである。
(p. 291)

ちなみに、物語る存在としての人間とは、アラスデア・マッキンタイア
「美徳なき時代」(1981)の中で唱えたものだそうな。

例えば「私の人生の物語はつねに、
私のアイデンティティの源であるコミュニティの物語の中に埋め込まれている……」
(P.289の引用)

(「ナラティブ・ベイスト・メディスン(NBM)」が言われ始めた背景も、もしかして、これ?)

 家族や同胞の行動に誇りや恥を感じる能力は、集団の責任を感じる能力と関連がある。どちらも、自らを位置ある自己として見ることを必要とする。位置ある自己とは、自ら選んだのではない道徳的絆に縛られ、道徳的行為者としてのアイデンティティを形づくる物語にかかわりを持つ自己だ。
(p.304)


私もこのブログで、Peter Singerの言っていることや
“Ashley療法”擁護論を含めて“科学とテクノの簡単解決”文化の人たちは
あまりにも人を周囲から切り離された「個体」として眺め過ぎているという印象を強く受けていたので、
自ら選んだわけでもない諸々の“しがらみ”や“くびき”を背負い、
人や地域や社会や、個々の家族や国や人類の歴史の中に「位置ある自己」として
それぞれの物語を生きる人、という捉え方に、とても納得するものがあった。