「悪人」繋がりで再掲:「重い障害」の“外見”が見せる「存在しない痛み」

日本では映画「悪人」が話題になっているし、
英語圏では相変わらず「慈悲殺」を巡る議論が後を絶たないので、
去年6月2日に原作小説を読んだ時に書いたエントリーを以下に再掲。

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1月のObama大統領の就任式の中継を見ていた時に、
ブッシュ元大統領(父親の方)が杖を突きながら歩いている姿を見て、
CNNのベテラン・大物キャスターのウルフ・ブリッツアが
「ちょっと痛そうです」とコメントし、
後に記者席に訂正情報が届いたらしくて「痛みはないのだそうです」と
訂正したのが印象的だったという話を

大統領就任式でCNNキャスターが失言のエントリーで書いた。

人は誰かの体が自由にならない場面を見ると、こんなにも無邪気に何の疑いもなく
その人が苦痛を感じているはずだと自動的に思い込んでしまうのだなぁ、と
改めて痛感させられるブリッツァの失言だった。

先週、吉田修一著「悪人」(朝日新聞社)を読んでいたら、
これとまったく同じ誤りを見つけた。

ストーリーとは無関係に、わびしい夜の病院の点景として描かれる、
「小児まひの男の子」に関する記述。

待合ホールの奥に目を転じると、昼間はつけっぱなしにされている大型テレビの前にベビーカーを置いて、今夜もまた、髪を赤く染めた老婆がぽつんと座っている。何をするわけでもないのだが、ときどき思い出したように、ベビーカーを揺すったり、中の男児に、「なんね? どうしたと?」とやさしく話しかける。
 ベビーカーには小児まひの男の子がのっている。ベビーカーにのせるには、少し大きすぎる男の子で、歪んだ手足がフリルのついたベビーカーから突き出している。
 老婆は毎晩、この時間になるとここへくる。ここへ来て、返事をしない男の子に話しかけ、痛がってよじる体を摩ってあげる。(p.122-123)

 ベビーカーの男の子を間近でみるのは初めてだった。遠目にもなんとなく想像はしていたが、男の子のからだは、想像以上によじれており、弱々しい斜視が、焦点もなくさまよっている。
「マモルくん」
美保は男の子の細い腕を摩った。
横で老婆が、どうして名前を知っているのか、怪訝そうな顔をする。
「さっき、看護師さんがそう呼んでたでしょう?」
美保が慌てて説明すると、嬉しそうな顔をした老婆が、「マモルは、人気者やねぇ、みんな、マモルのこと知っとるよ」と男の子の汗ばんだ額を撫でる。
こうやって撫でてやっとると、痛みば減るとやもんねぇ
そう言いながら、老婆はぐったりとした男の子の肩を摩った。自動販売機が、かすかに音を上げてうなる。(p.137-138)


「小児まひ」とは通常はポリオのことだけれど
ワクチンが普及した今では滅多にないと思われ、
ここで著者が意図しているのは「脳性小児まひ」つまり「脳性まひ」のことでしょう。

脳性まひで(多分ポリオでも)手足が捻じ曲がっていることそのものには
痛みは伴いません。

本当は
多少はみ出すとしてもベビーカーに乗れるくらいの年齢では
まだ体もそれほど、ねじれてはいないはずだし、
もし既にねじれて見えるとしたら、緊張の強い痙直型だろうから
逆に「ぐったり」などしていないはずだと思うのだけど、
そのあたりの細かい矛盾はともかく、

ここに見られるのもまた、
「身体に重い障害がある」外見から直線的に連想されてしまった「痛み」。

体を自由に動かせないから、または体の部分がねじれているから、
本人にとってはただ動こうとする身動きでしかないのに
傍目には「体をよじっている」ように見える。

しかし、体の動きが「よじっているように見える」ことは
そのまま「痛みがある」ことを意味するわけではありません。

そこに痛みへの連想をくっつけて「痛がって体をよじっている」と解釈するのは
「こんなによじっているのだから痛いに違いない」とする
障害に対する無知に基づいた勝手な誤解であり、
ブッシュ元大統領が杖を突いて歩く姿に「痛そうです」と感じたブリッツァと同じ。

著者はブリッツァと同じ誤解に基づいてこのシーンを書いているので、
自動的に読者もその誤解を共有させられて、
男の子の「汗ばんだ額」も「ぐったりした肩」も
おそらくは「小児まひの痛み」と繋がってしまうのではないでしょうか。

どれほど多くの人が、この本を読み、
ストーリーの展開と無関係な、この男の子に関する記述を
大して気にも留めずに読みすごし、だけど読みすごしつつ無意識のうちに
「全身の痛みに常時耐えている小児まひの子ども」という悲惨なイメージを
自分の中に取り込んでしまうことか。

外見的な障害の重さに、人は根拠もなく、こんなにも単純に
痛苦を連想し、勝手に結び付けてしまう。

「こんなにも体がねじれて痛いに違いない」
「こんなにも障害が重度なのだから生きていることそのものが苦しいに違いない」

「寝たきりで言葉もなく、自分では何もできないのだから
きっと何も分からないのだろう」

こんな体で生きていても、痛くて苦しいばかりで
いっそ死んだ方がマシなんじゃないか……。

きっと本人だって、そう感じているはずだ……。

英米でジワジワと広がっていく
「死なせてあげることが本人の最善の利益」という“慈悲殺”の論理と
こうした、無知からくる誤った連想との距離は、
実は思いのほか小さいのかもしれない。

小さなマモル君が誰かに撫でてもらっている時だけ和らぐほど痛みに常時さいなまれていて、
それが何もしていない時にも体をよじらせるほどの耐え難い痛みなのだと、
本気でリアルに想像してみれば、マモル君の置かれた状況は
それこそ想像する方が耐え難いほどの悲惨になってしまう……ということを思えば、

その、見ている方が耐え難いと感じる悲惨を、実は何の痛みも感じていないマモル君に投影するだけで
慈悲殺の論理との距離は埋まってしまう。


ちなみに「悪人」そのものは悪くない作品でした。