アニメ・ソング「ダウン症ガール」巡り「コケにされる平等」インクルージョン論争(米)

米国のテレビ・アニメ“Family Guy”といえば、
今年3月にWesley SmithがTerry Schiavoさんを笑い物にしているのを問題視し、
その内容を当ブログでも紹介しましたが、

そのFamily Guyが今度は2月に「ダウン症ガール」という歌を作り、
ステレオタイプそのものの男女を登場させてコケにした。

その歌がYouTubeにアップされて視聴回数が増え、
さらにエミー賞のオリジナル音楽賞にノミネートされるに至って、
The National Down Syndrome Congress of the U.S.が抗議。

「人種、性的志向、障害というのは人のアイデンティティの核であって、
変えることのできないものです。

人が自分には変えることのできないものを笑いものにすることからは
そういう人を見下だして、社会から排斥することしか生まれません」

ダウン症の息子のいる元大統領候補Sarah Palin氏も、歌が登場した際にすぐさま抗議したという。

ただし当事者の間でも意見は分かれていると以下の記事は言い、

何でも笑いのめす番組なのだから
他の諸々と一緒にダウン症が対象として取り上げられることもまたインクルージョンなのだ、と
コメントするのは、LAのダウン症協会スポークスマン。

Down Syndrome group slams Emmys
The CBC News, August 27, 2010


お馴染み、What Sorts of Peopleブログがこの問題を取り上げており、
以下のエントリーに、その歌のYou Tubeがあります。

私自身は、この歌とかアニメのニュアンスが今一つ、ちゃんと分からないのがもどかしい。

Disability on Television: Family Guy
What Sorts of People, August 30, 2010


この記事を書いている mworkman氏自身は
否定的に描かれる障害者像が世の中の人に差別意識を植えつけ強化すると考える一方で、

白人中流階級と同じようにエイズ患者や癌患者がジョークの対象になるなら
特定の属性のある人だけがこういう番組でタブーになるよりは、
こうしてジョークの対象となるのはインクルージョンの一つではあるとも思う、といい、

視聴者の方がこういう番組は所詮これだけのものだと受け止めるだろうし、
ステレオタイプそのものを笑いのめすことの意義を認めるなら
特定の人たちだけに触れるなと闘うことはそれほど価値があるのか、と疑問を投げかけている。

それにしても、08年のTropic Thunderの差別発言問題では、
当事者からこういうアンビバレントな声は聞こえてこなかったけど、なぁ……。



私自身は、まず、
その他の議論とか今の世の中の空気とかと切り離して
この問題だけを考えていいのかなぁ……という気がする。

例えば、あちこちで、それぞれ別個の議論として進んでいる
ロングフルバース訴訟、選別的中絶、無益な治療論、
自殺幇助や障害児・者の慈悲殺擁護論などが世の中全体に、
障害のある人の生は生きるに値しないという価値意識を広めていて、

同時に暴走型のグローバル資本主義の閉塞感に晒されている人々が
そのやり場のない不安感や憤りのはけ口を求めるかのように
障害者へのヘイト・クライムも、女性や子ども、総じて弱い立場にある者への虐待も
急激に増え、広がっている。

そんな世の中に、
自分の責任でどうにもできないことを巡っては、良識と節度の範囲で
今までは公然と言われることが控えられてきた差別的な言辞に対して、
その良識をかなぐり捨て、言論の自由だと開き直ることが許容される空気が
生まれ広がりつつある……というだけのことではないのだろうか。

例えば、日本でも公的な立場の人の障害者や女性、外国人、老人に対する露骨な差別発言が
以前ほど厳しい批判の対象にならなくなっているように思えること
社会全体が他者の立場に立つ想像力と寛容を失いつつあることと
通じていくものが、そこにはあるような。

例えば、上記記事のダウン症アドボケイトの全国組織の人が
「人種、性的志向、障害というのは……」と批判のコメントをするにあたって、
わざわざ「言論の自由を否定するつもりはありませんが」と敢えて断らなければならないような
そういう空気――。

それに、私はこの番組を直接は知らないけれど、
シャイボさんを笑いものにした回の内容が(「とてつもなく高価な野菜」「マッシュポテト脳」など)
Family Guyという番組の意識の程度を物語っているのだとしたら
とうていステレオタイプそのものを笑い倒すことで否定しているわけではなく、

人間なら誰でもが持っている「誰かを見下して笑いものにしたい」という下劣な欲求に
単に媚びているだけのような気がする。

番組が訴えていくところが視聴者の欲求であって思考でない以上、
視聴者がmworkman氏が言うように賢明な距離感で番組を捉えるとも思えない。
視聴者の多くが子どもや若者たちであるとしたら、なおのこと。

それにしても、
コケにされることにおける平等という方向性でインクルージョンが持ち出されるというのは、
私には全く思いがけないことだったので、ちょっと、おたおたしてしまう。

なんとなく、Tom Shakespeareが自殺幇助議論の中で
障害者だからこそ死の自己決定権を保証しろと言っていたことと、
論理の構図がどこか似ているような気がするのだけど、
どこか、どういうふうに、と今はうまく説明できない。

前にこちらのエントリーで、Shakespeareの主張を
社会での平等を求めるあまり家庭での差別の温存を許し、
社会でも悪平等を引きかぶることになってしまったフェミニズムの失敗に
なぞらえてみたことがあるのだけど、言ってみれば、そんなふうなこと。

コケにされることにおける平等がインクルージョンだと当事者が言うのは、
女の権利を声高に唱える女は魅力的じゃないとかスマートじゃないとか賢くないとか、
そんなふうに思わせようとする空気にノセられて、
「あたしはそういう女じゃないから」と言ってみせることに
とても近いことのような気がするのだけど……違うかな……。


【31日追記】
結局、「ダウン症ガール」は受賞しなかった。
NDSCからの抗議を受け、エミー賞運営サイドでは受賞式でこの歌を流さないことを決定したとのこと。

NDSCがエミー賞サイドに送った抗議文はこちら
エミー賞からのレスポンスを受けてNDSCが会員や支持者ら向けに出したリリースがこちら