山本有三の堕胎罪批判から考えたこと

前のエントリーの最後にリンクした森岡正博氏の文章から連想したので。



を読んでいたら、

映画監督との短い関係で妊娠した子どもを中絶し、
1935年に産婆と一緒に堕胎罪に問われた女優、志賀暁子の裁判の下りで、
彼女に同情的な意見として作家の山本有三の批判が引用されていた。

彼女を誘惑し、彼女を身ごもらせ、彼女を捨てた男は今どうしているか。彼は名誉こそ多少傷つきたれ、ステッキを振って自由に街頭を歩いているではないか。……男に堕胎は出来ない。そして女が妊娠したら、極力相手にしないようにすれば、この犯罪にひっかかる心配はない。まことに今の世の中は男子に住みよく出来ているというものだ。
(P.103)

しかし検事は、

男に捨てられたというのみを以て、堕胎を決意し、これを実行するということは、女性として欠くる所がある
(p.103)

と有罪を主張し、
裁判長も「緊急避難」説を認めず、
懲役二年、執行猶予三年の判決が下された。


なにか、そのまま読み過ごせない感じで、
山本有三の言葉と、検事の言葉を何度か読み返していると、

この前、2人の幼児を1カ月以上も放置して死なせた若いお母さんのことが頭に浮かんだ。

そして、いかに離婚したにせよ、
あの子どもたちには父親だっていたのだ……ということを考えた。

         ――――――

私の問題意識は、すべてのスタートがAshley事件にあるようなものなので、
(それまではロクにものを考えていなかった証拠ですが)
中絶の問題、特に選択的中絶の問題については

2007年、Hastings Centerのブログ Bioethics Forumでの
LindermannとDregerの論争が言ってみれば初めての出会いだった。



この直後には、障害女性のアドボケイト、FRIDAが
プロライフと障害女性問題活動家とは表面的には同じ主張をしているように見えるだけで、
実際には全く異なった立場に立脚して問題を眺めているのだ、ということを主張しつつ、

女性の選択権と、障害のある命の尊重との間で
FRIDA内部にもあるジレンマを見据えようとする文章とも出会った。


それからずっと、「中絶は女性の権利」と言うことと
着床前遺伝子診断や選択的中絶を批判的に捉えることとの間で
どのように折り合いをつけていくのか、ということは、

私の中では、ある意味で
Ashley事件に突きつけられた「親の権利 vs 子どもの権利」の相克と同じであるようで、
また、ある意味では同じでないかもしれない……みたいな悩ましいところを
ずっと、ぐるぐる、行ったり来たりする、ややこしい難問。

でも、
山本有三の言葉と、検事の言葉から
あの若いお母さんを思い出し、次いで、
彼女に放置されて死んだ子どもたちの父親の存在と
そして、事件を受け止める側の意識における、その不在、を考えた時に、

「女性の選択権」 vs 「子どもの命」という対立の構図が、そもそも違うんだ――。

……と、ふいに目の前を拭われたように、明瞭に了解した。

そういう構図で考えるところに頭を持って行かれてしまうことに、まず警戒し、
もうはまっていたら、それに気付き、そこから抜け出さないといけないんだ――。

その対立の構図は、やっぱり、Ashley事件でDiekemaらが仕組んだ
「本人のQOLを守ろうとする親の愛」vs 「政治イデオロギーで邪魔立てする障害者」の
対立の構図とそっくり同じなのではないか、と思う。

そこでは、どちらも同じ問題のすり替えが行われていて、
そのすり替えで覆い隠されようとしているのは同じものなのではないか、

そこで覆い隠されているものとは、つまり、
変えるべきものが社会の中にある、ということ――。