「ターミナル」診断に対する医療職の意識調査:“生の質”も“死の質”も本当はただ“医療の質”の問題では?

The Journal of Clinical and Health Psychologyに掲載されたGranada大学の調査で
患者をターミナルな段階だと認定するにあたっては
医療職の感情などが影響し基準が一定していない、と。

Granada地域の病院で42人の終末期の患者のケアに当たる
21人の医師と21人の看護師に詳細な面接を行った。

17人が地域の医療センター勤務、
18人が公立病院、3人が民間の医療センター、4人が合体型ユニット勤務。
患者は23歳から52歳で、22人が女性、20人が男性。

その結果、
プライマリー・ケア(地域のセンター)と専門病院の医療機関のタイプによって、
また医師か看護師かの職種によって
ターミナルの診断姿勢が異なった。

地域の医療センターでは患者の状態を定義する用語として
医師も看護師も「ターミナルな病気」の診断用語を使いカルテにも記入している一方、

公立病院勤務の看護師は「ターミナルな病気」という表現を避けてその他の言い方に置き替えている、
医師は医療職同士では使うものの、カルテには書かない。

医療職の中に、緩和ケアの役割と目的に対する誤った認識があり、
ターミナルと診断づけることを「死の宣告」と捉えている、とも。

また、ほとんどの医療職が癌患者についてはターミナルと診断していた一方、

特に地域の医療センターの医療職の多くは
癌以外の慢性病や進行性の病気についてもターミナルとの診断と結びつけていた。

ターミナルな病気の診断の基準と参考事項は
少なくとも癌については20年前に定義されているが、
いまだに十分に診断が行われているとは言い難い、と論文は強調。

ターミナルとの診断によって医療が切りかえられて
患者と家族が緩和ケアを受けられるようになることを考えると、
ターミナルと指弾することへの医療職の感情的な抵抗感で
緩和ケアを必要とする状態の患者と家族が受けられていないのでは、との疑問が生じる。

また、ターミナルな患者と関わる医療職の
感情的な負担感についての研究も不足している、と指摘。



調査対象の医療職が担当していた患者さんが
23歳から52歳と、比較的若いことがちょっと気になる。
これが高齢者だったら、また違うんじゃないだろうか。

医療職側の内訳は説明されている一方で患者側の病気が何だったのかについては、
例えば癌とそれ以外の患者さんの割合とか、癌以外の患者さんの病気とかは、
この記事では説明されていないので、

「癌だとターミナルという概念と結びつきやすいが
地域の医療センターでは、それ以外の慢性病や進行性の病気でも結びつけている」というのも
今一つ、しっくりこない感じもある。

記事のタイトルが「ある病気をターミナルと認める基準が不適切だと医療職は感じている」と
ちょっと曖昧なものだったこともあって、

例えば、英国で医師らが告発していたように
どうせターミナルな高齢者だから、さっさと脱水、死ぬまで鎮静でいいと考えていれば
さっさとターミナルだというラベル貼りがされるとか、
そういう意味で基準が一定していない懸念の話かと思って読んだら、
(やっぱり患者さんの年齢による違いも大きいと思うんだけど)

表面的にはともかく、実質的には、まったく逆だったという印象。

昨日から「死の質」調査のことを考えている影響もあって、
やっぱり考えるのは去年の秋の医学雑誌での認知症患者の緩和ケア論争。



このGranada大学の調査が念頭に置いているのは
「どうせターミナルなんだからアグレッシブな医療は一切やめましょう」というだけの
Mitchell医師の主張のようなスタンスなんじゃないかという気がする。

でも、この論争でSashs医師が主張したように、緩和ケアは
単に「アグレッシブな医療か一切医療をしないか」という選択の問題ではなく
「良質なケアを減らす」ことでもなく、

「アグレッシブに細やかに症状管理を行い患者と家族をサポートすること」なのだとすれば、

必ずしもターミナルと診断してラベル貼りをして
「医療を切り替える」ことを徹底しようと声を大にしなくても、

また、必ずしも緩和ケアの専門家やホスピスでなくても、

やっぱり個別性の中で、丁寧に個々の患者と家族に向き合う中から
ある程度おのずと出てくることなんじゃないかという気がするのだけど。


ついでに、日本の
徳永医師の緩和ケアについて書いたエントリーを。



       ――――――

一昨日からの「死の質」に関するエントリーはこちら。



この問題に関連して、昨日、某MLに投稿したものの一部を以下に。

「良い死」だったとか「豊かな死」だったというのは、
あくまでも人の人生の一回性の中で主観的にしか決められないことだと思うし、
私は、その一回性の中でドロドロしたり、グルグルしたりしながら、
ギリギリのところで何かを選択するという、そのドロドロやギリギリからこそ
人が生きることにまつわるいろんなことの意味というものは生まれてくるのだと考えるのですが、
「死の質」という言葉がそこにもちこまれることによって、
死に方に外側からの客観的な評価の視点が持ち込まれてしまうんじゃないのか、
で、それは結局、切り捨ての新たなツールになっていくんじゃないのか……

ホスピスが充実していて緩和ケアの質が仮に高いとしても、
だからといって個々の患者の「死の質」が高いことになるのかどうか、
という問題もあると思うのですが、

終末期の医療のいくつかのファクターによって評価された「死の質」が、
日本の記事のように、そのまま個々の患者の「死の豊かさ」として
翻訳されて流布されてしまうことには、それ以上の違和感があります。
じゃぁ、そこで何が飛び越えられてしまっているのか、ということ……

こんなことをぐるぐる考えていたら、
今朝、ふっと頭に浮かんだことがあった。

この調査が対象としているのは「死の質」でも「豊かな死」でもなくて、本当は
ただ、単に「40ヵ国の、緩和ケアの整備量と、ある一面から見た質」に過ぎないということ。

そこから、更に金魚のウンチ的に頭に浮かんできたこととして、

QOL(生活の質であれ生命の質であれ)とは
もしもどうしても使うつもりなのであれば「死の質」にしても
本来、「医療の質」を改善し、向上させるための指標として、医療の内部で
医療職に対して、その実践を問い、医療の質を測るツールのはずではないのか、ということ。

それが、いつから、どのようにして、「医療が自らの質を問う指標」から
「医療に値するかどうか、医療が患者の質を問う指標」や、
「生き方や死に方を医療が評価して社会に提言するための指標」へと
転換されられていったのか、また転換させられていきつつあるのか。

そもそも緩和ケアの本来の理念が
患者さんが、その人の人生の一回性の中で死んでいくことを支える、というものだったはず。

そして、患者さんが人生の一回性の中で病むことの全体を見る医療が
たしか「全人的医療」と呼ばれて提唱されていたはず。

本当は、これら一切、「医療の質」の問題に過ぎないのでは――?