「死の質」は果たして「生の質」の対極にある概念なのか


Independentの記事には、
「生活・生命の質 quality of life」には注意がはらわれてきたけれど、
今まで「死の質」にはそれほどの注意がはらわれてこなかった、として
この調査を歓迎しているようなトーンがあるのだけれど、

本当に quality of death は、quality of life の対極にある概念なんだろうか。

……な~んて、タカビーな問いを立ててみたところで、
私にそう簡単に、この問いを巡る考えがさささっと湧いてくるわけはないのだけれど、

とりあえず、今までの議論の流れからすると、QOL という概念は、
当初こそ患者の生活を無視した医療のパターナリズムへのアンチだったにせよ、
昨今の英語圏の人の生の入り口と出口の医療を巡る議論における QOL は
とっくの昔に切り捨ての指標になり果てていて、

そういうものとしての「生命の質」の対極に「死の質」があるわけはないだろう、

むしろ「生命の質」のすぐ先に、実は同じ概念の別の顔として
「死の質」が待機しているだけなんじゃないか……みたいな違和感というか警戒感。

例えば、

つい先日、総括されたベルギーの安楽死の調査では、
本人の明示的な要望なしに安楽死が行われたケースまでが「死の幇助」と形容されていて、
それを違法行為として問題にする視点が全く欠落している。


英国医師会も先週、自殺幇助合法化反対を確認した際に、
やはりベルギーの実態で、この点に大きな懸念があるとして、
現実の殺人リスクと、それによる社会の意識の変容リスクの2つを指摘していた。
(以下の記事では約半数が本人の明示的要望なしの安楽死とされています)


今のところ、ベルギーで本人の明示的な要望なしに行われる安楽死は、
なんとなくグレイなエリアにとどまって、誰も違法行為として暴かないままのようで、
報告書も「減らしていかなければならない」と平然と”今後の課題”扱いしているけれど、

このギャップのところにquality of death という概念と言葉が持ち込まれると、
簡単に正当化の道筋がついてしまう……ということは???


重症障害新生児の救命で、基本は親の選択権だとしても、
じわじわと、それを超えて「生命の質」の評価としての「無益な治療」概念が
病院側に治療停止の決定権を確立していきつつあるように、

終末期医療のところで自己決定権による延命措置の差し控えや中止の先に、
「死の質」という客観的な装いの評価指標が導入されることによって、
「これ以上の延命は”死の質”を低下させて本人の最善の利益になりません」という判断権限が
本人でも家族でもない医療サイドに認められていくための土壌づくり……とか?

でも、これはやっぱり、一人の人の「生の質」とその対極にある「死の質」でもなければ
一般的な「生死」をはさんでの「生の質」と「死の質」というセットでもないと思う。


とりあえず、「死の質」だから単純に「生の質 QOL」の対極として、
セットで語ったり、対置してモノを考えたりする前に、
ここのところには、もっと考えないといけないことがある……という気がする。

特に我々日本人は、英語圏のこれまでの議論の流れを知らされていないだけに、
この調査の結果だけを報道されて「豊かな死」などという言葉に
簡単に踊らされないようにしたい。

そもそも、日本語の報道では、いつのまにか
「豊かな死」と早くも価値判断を含んだ表現に
置き換えられていることそのものが、何か、クサくない?


【16日追記】

調査を依頼したシンガポールの慈善団体 Lien 財団の、この調査に関するリリースは、こちら

なお、Lien 財団公式サイトの財団に関する説明(about us)は、こちら

こういうことを調べていたら、いろいろ出てきたので、
またこちらの追加エントリーを書きました。