「必要を作りだすプロセスがショーバイのキモ」時代と「次世代ワクチン・カンファ」

次世代ワクチン・カンファについて
前回のエントリーを書きながら、つらつら考えてみたこと。

私は経済のことも医療のことも、なにも知らない素人だけど、
最近なんとなく想像してしまうのは、

よく言われる「世界の産業構造が変わった」というのは
昔は「生活に必要なモノを作って売って自分も買って」で
お金が回って、めでたく経済が成り立っていたんだけれども、
いろいろと世の中が進んで効率化されて便利になるにつれて
生活に必要なモノはもう簡単に充足されてしまって、
それだけでは経済がスムーズに回転するほどカネが回らなくなってしまったんだな、と、

そこで前と同じようにカネを回して経済の仕組みを維持するためには、
必要がないところに必要を生み出す以外になく、
いろんな新しい欲望と必要とを次々に創出すべく、
それに向かって情報や人の心を操作することが、すなわちマーケティング……
……というショーバイの時代になってきたのだな、と。

しかも、そういう変化と並行して、
モノはできたり動いたりしなくても、カネの方が動くだけで
「生活に必要なモノを作って売って買ってカネが回っていた時代」が石器時代に見えるほどの、
ものすごい規模と速度でカネが生まれる妙な仕組みが出来上がってしまって、
そっちの速度の方がペースメーカーになってしまった?

で、そのペースメーカーは、
実体経済には到底追いついていけないような過酷なペースを刻んで暴走していて、

そのために、
必要のないところに必要と欲望をつくりだしていく操作も
目が回るほどの急ピッチで繰り出し続けなければならないし、

速度だけじゃなく、そこに注ぎ込まれるカネの額だって
「生活に必要なモノを作って売って」るところのマーケティング費用が砂粒に見えるほどで。

いくら、ないところに必要を生みだすショーバイでも、「作る」と「売る」がある限りは
どうしたって実体経済なのだから、その2つは切り捨てられないのだけれど、

必要をつくり出すプロセスの方に多大なエネルギー消費と緊張を強いられている人たちにとって
いつのまにか、その、プロセスに過ぎない部分の方が経済活動の本体であるかのように
感じられるようになってしまっている……なんてことはないのかな。

だから、「作る」のところの奴隷労働で人が死ぬことにも「売」った結果で人が死ぬことにも、
立ち止まって、その意味を考える感覚すらマヒしてしまう……みたいな?

(マヒしていなくても、そうでなければグローバリゼーションに生き残れないから、かもしれないけど)


もちろん、ワクチン業界だけのことを言っているわけではありませんが、

ただ、こういう大きな絵の中に、あの「次世代ワクチン・カンファ」を置いてみると、
あそこにあるのは、そういう、いかに”必要”を作りだし、
いかに、その”必要”を売り込んでいくかというプロセスへの興味ばかりで、

この人たちの売りモノは、商品である実物の個々のワクチンというよりも、
「ワクチンで無数の病気を際限なく安全に予防・治療していくことが可能だ」という、
実は誰も確かめたことのない幻想なのでは……と考えてしまった。

そこに必要があるから、ある病気のワクチンを開発する……という時代はもう終わって、
開発されることから、必要が生じてくる……という時代、
開発の過程から「できる! 治る!」と声高に先走り情報が流され、
まだないものに対する欲望と必要が創り出され、
価値の拡大が図られる時代になってしまったのだとしたら、

たしかに、病気は無数にあるのだから、
作り出せる潜在的な”必要”も無数にある。

だから、個々のワクチンではなく、ワクチンというものの存在と、それを巡る幻想には、
無限にマーケットを拡大していくポテンシャルがある。

ショーバイだけで考えれば。

でも、
携帯電話にそれほど沢山の機能を必要とする人は実はいなくて、
今の機能だって使いこなせないような人が多いのに、
次々に新しい次世代型が開発されることによって
そこに新たな必要が作られていくショーバイの戦略と、

次世代ワクチンが、新たな必要を生むべく次々に開発されていく戦略とが
同じような語り口で語られてしまうのだとしたら、それは、やっぱりおかしくはないだろうか。

一昨年、去年と米国のビッグ・ファーマのスキャンダルを暴くのに尽力したGrassley上院議員
Biedermanスキャンダルのあまりにえげつなさに怒って放った一言を思い出した。

スニーカーを売るのとは違うんだぞ。