家族の脳死臓器提供に同意した人の語り

21日24日のエントリーで取り上げた「いのちの選択」の中には、
事故で脳死状態になった家族の臓器提供に同意した体験を持つ方の語りという
滅多に知ることのできない貴重な内容が含まれている。(P.49-59)

仮名で、聞き手は市野川容孝氏。
結論としては「今はむしろ強く後悔しています」と言い、

制度があるから、その制度の中でやったことは一応間違っていないことになるけれど、
自分自身の中の割り切れなさを正面から見つめていると、
制度自体が間違っていると感じるようになった、という思いを
率直に語っておられます。

いくつか、特に印象的だった内容について。

臓器提供について、「いいじゃん、どうせ死んでしまう人なんだから。臓器提供して救われる人がいて、生きられた人たちがこんなに楽しそうにしているんだから、誰が損をするの?」という人がいるかもしれません。でも、それには私は「損得ではない」と言いたい。これは経済的な話ではないし、まして誰かの利益ということで考えていい話ではないのだと。生きることは損得や利益ではなく、それ自体が別の価値なわけですから、損得の話で納得したり、正当化したりしてはいけないと思います。

「やってもいい」を前提した「利益対リスクまたは害」検討
これと全く同じ損得勘定なのではないか、と思う。
その検討以前に「できるとしてもやってはならない」という別の価値があることから
わざと目を逸らせて話が始まるのは、技術の適用を前提にした合理化のマヤカシ)


・本人が脳死からの臓器提供に同意するドナーカードを持っていたから
家族として自分も同意したが、果たして摘出時点で本人が本当に
摘出されていいと考えていたかどうかは分からない、ということを
ずっと考え、引きずっている。

・結局聞くことができるのは「受け取ってよかった」という話だけで、
摘出された人、移植を受けたけど亡くなった人の(声なき)2者が忘れられている。

・この家族の脳死と同時期に、別の家族のガン死を看取った。
 ガン死の家族の時は顔の表情の変化などスローな死のプロセスを見届けた感じがあるが、
 脳死の場合は、「何が途中でブチッと切られた感じ」で看取ったという感じがない。
 最後の死の瞬間に居合わせていないことが、ブチッと切れた感じに繋がっているのかも。
 
・救急医が、脳死が人の死だとは決して言わず
最後まで治療する姿勢でいてくれたことがありがたかった。
それに対して移植医には臓器が必要なだけなんだなと感じた。

・家族は希望すれば脳死判定だけでなく摘出手術も見れることになっているのに
誰もそのことを積極的に教えてくれず、むしろ見せたくないようだった。
移植医もこちらとの接触を避けようとしていて、罪悪感があるならやらなければいいのに、と思った。

・家族が整理できない気持ちを抱えて
こうして悩まなければならないこと自体が不自然なこと。

・同意することで自分が最終的に殺したのかとの自問がある。
元気な時に提供したいと聞かされていても、
いざその時の本人の気持ちは誰にもわからない。
家族で話し合ってドナーカードを書けと言われるが、
実際に体験しない限り、そんな話し合いは無理。

身体は自分のものだし、自己決定、自己責任であげるんだから、いいじゃん、と考える人がいるかもしれないけど、責任をとるというのは、元に戻せるということなんだよ、元に戻せなかったら、責任はとれないんだよ、と私は言いたい。身体とか、生きるとか死ぬとかは、そもそも自分で責任を取りきれることではないし、とらなくていい。変に責任を取ろうとして、逆に窮屈になっている気がする。責任をとれないんだから、許したり、あきらめたりということにすればいいのに。

……そもそも身体は、やりとりできるようなものではないんだから。

 あきらめなくてはいけないことが最後にはあると思うんです。誰かのものだと思ったらほしくなるけど、誰のものでもないなら、もらうこともできないのではないか。所有を主張していいものでは、身体はないということだけは、確かじゃないかと思います。


この人は、二度と家族の臓器提供には同意できないけど、
自分自身は臓器提供したいと考えている。
同意したことを罪だと感じていて、それを償うためには
自分自身の臓器を移植に使ってもらう以外にないと考えているから。

しかし、それは傲慢なことで、愛する人たちをまた罪に陥れることだとしたら、
いったい私はどうしたらよいのか。


もちろん、この人と同じ立場でも、全然、後悔していない人もいる。

この人の語りの中にも、
むしろ積極的に臓器移植を推進しようとする家族の会の人の姿が出てくる。

そこのところで、
そんなふうに後悔していない人や、後悔しないために活動に向かう人の声は
私たちにも聞こえる機会はあるのだろうけれど、
市野川氏が聞き取りしているこの人のように後悔している人は
本当はあまり語りたくないだろうから、こういう声は、
やっぱり私たちの耳には届きにくい……ということを考えながら読んでいたら、

ふと思い出したドキュメンタリー番組の一場面があった。

複数の臓器の移植を必要としてドナーが現れるのを待っている幼い子どもを抱いたお母さんが、
病院の廊下で、腕の中の子どもに「移植、受けるでしょ」と聞く。
子どもは困ったような顔になって答えなかった。

「受けるんでしょ」お母さんが、ちょっと強い口調になる。
「受けないと死んでしまうんだよ」

子どもは泣きそうな顔になり、小さな声で聞いた。
「でも、僕がもらったら、その子が死んじゃうんでしょ」

ここで、お母さんがどういう説明をしたのか具体的な言葉までは覚えていないのだけど、
命の贈り物として説明したと思う。その流れで最後に「だから、移植、受けるよね」
たたみかけられて、子どもは黙ったまま小さくうなずいた。


それを思い出して、
「子どもに移植を受けさせたけど亡くなって、
受けさせなかった方が良かったんじゃないかと後悔している親」の声もまた、
私たちには、まず聞こえてこないのだろう……ということを思った。

それから、幼い子供であったとしても「いやだ」という一言を言わせてもらえる機会を
本当の意味で、親の誘導から自由になれる状況で、保障される権利……ということは
考えなくてもいいのだろうか……みたいなことと。