ベルギーで2年前にロックトインの女性、「安楽死後臓器提供」

昨日のエントリーでSavulescuの「臓器提供安楽死(ODE)」の主張を紹介しましたが、
彼の論文の記述を受け、Wesley Smithが、その後すぐに
ベルギーで行われたという安楽死後の臓器提供ケースに言及された文献を見つけて、
続報ポストを書いています。

2008年の Transplantation誌に掲載された編集長宛ての手紙で報告されており、
手紙のタイトルは「医師による自殺幇助後の臓器提供」。

ロックトイン症候群の女性の本人意思で安楽死が行われ、
その後、臓器提供が行われたとのこと。こちらも本人の意思によるもの。

安楽死は手術室の隣の部屋で通常の病院ベッドで行われ、
その間は移植医は部屋には入らず、
3人の中立の医師らが10分間心臓が動かないことを確認して死亡宣告。

その後、女性の遺体が手術台に移され、移植医によって肝臓と腎臓が摘出されて
通常の死後提供のヨーロッパ臓器移植配給ルールにのっとって
3人のレシピエントに移植された。

(注:Savulescuが提案しているODEは生きている状態で臓器を摘出することを安楽死の方法とするもの。
それに対して、ベルギーのこのケースは、まず安楽死させた後に臓器を摘出しているので、
人為的心臓死後臓器提供DCDにあたり、実際にはODEとは区別されるべきものです。)

この手紙の著者である医師の結論部分は以下。

まず始めに安楽死、次に死後に臓器提供という、
それぞれ別個の2つの要望があった、この症例は、
安楽死後の臓器摘出も検討されてよいし、
安楽死が法的に認められている国々では
それは倫理的にも法的にも実用面からも許されてよいことを示している。

このやり方によって移植可能な臓器の数は増えるだろうし、また
患者の命を終わらせることが臓器移植を必要とする誰かを助けることになると考えられれば
ドナーと家族にとっても慰めとなるだろう。

Smithは、まず、
ロックトインの患者さんたちの多くは時間をかけて障害に適応し、
やがて生きていてよかったと感じるようになることを指摘。

その他、Smithが批判している点は、

・こんなふうに安楽死・自殺幇助と臓器提供が結びついてしまったら
障害者や病者が負担(当人にとっても家族や社会にとっても)とみなされるだけでなく
搾取の対象ともみなされることになる。

・絶望の中にあるターミナルな患者や障害者、または単に絶望している人たちが
臓器提供のために自殺幇助を望むことだけが
自分の命を意味あるものにする手段だと思い込みかねない。

・障害を負って生きるよりも死んだ方がよいという考えを
医師や配偶者や権威ある医学雑誌がせっせと固めていけば
生きている患者はみんな、殺せば臓器が採れる天然資源とみなされてしまう。

・患者の安楽死希望と臓器提供希望とは別物だという意見もあるかもしれないが、
 この2つをドッキングさせてしまう社会では
人の命を救うためというのは簡単に死ぬ動機になってしまう。