臓器提供は安楽死の次には“無益な治療”論と繋がる……?

昨日のエントリー
Julian Savulescuが臓器提供安楽死(ODE)を提唱していることについて書きましたが、

Smithが引用していたSavulescuの論文の一節について
その後つらつらと考えていたら、気になってきたことがあります。

我々はどうしても頭の中に一定の思い込みがあって
それがSavulescuみたいな人とも共有されているという前提で読んでしまうので、

彼の主張を、つい、
「消極的安楽死や医師による自殺幇助における“死の自己決定権”と
臓器提供における本人と家族の自己決定権とが双方認められているなら
臓器提供という方法による自殺幇助は論理的に可能だ」
というふうに読んでしまうのですが、

果たして、本当にそうなのか……。

よく読み返してみると、少なくとも引用されている個所では
「心臓死後提供よりも本人と家族の臓器提供の意思を確実に実現できる」という部分以外で
自己決定が持ち出されているわけではなく、とりたてて重視されているふうでもないのです。

引用部分の冒頭で彼が書いているのは

It is permissible to withdraw life support from a patient with extremely poor prognosis, in the knowledge that this will certainly lead to their death, even if it would be possible to keep them alive for some time. It is permissible to remove their organs after they have died.

延命可能な患者であっても、予後が非常に悪ければ延命中止が認められている――。

これは、本当に、本人意思による消極的安楽死だけを言っているのでしょうか。

今の米国では、テキサス、カリフォルニアなど、
当ブログが知る限り少なくとも3つの州に「無益な治療」法があって
「延命可能な患者であっても、予後が非常に悪ければ延命中止」を決定する権利が
病院に認められています。

その場合、本人や家族の意思に逆らうことになっても、
医師が治療を無益だと判断したら病院に決定する権利がある、とするのが無益な治療論であり、
その決定権を法的に認めたものが無益な治療法で、
ここ数年で多くの訴訟が起きていて、

去年10月までの米国とカナダの「無益な治療」事件一覧はこちら
その後、米国ではBetancourt事件(米)、英国でBaby RB事件、カナダでIsaia事件がありました。

これらの多くにおいて、「無益な治療」の「無益」とは
「救命可能性が低い」という意味で「無益」なのではなく
「救命してもQOLが低すぎる」という意味となりつつあります。

英米カナダの医療現場では
重症障害がある人が自ら死の自己決定権を行使しない、またはできないとなれば
医師や病院の方で「あなたの治療は、もはや無益」と決めて、
「よって、死んでください」と言い始めているということでしょう。

つまり、重症障害者の「自己決定権」は、
事実上、「死ぬ」という一方向にしか認められていないことになるわけで、

しかも、医師・病院サイドと家族サイドの間に意見の不一致がなければ、
不一致があったとしても家族に訴訟を起こす財力がなければ、表面化しません。

2005年に栄養と水分停止によって餓死させられたTerry Shiavoさんの弟さんが
いまや栄養と水分は無益な治療と言っているように、
無益な治療論による強制的延命停止は、ほとんど慣行化しているとみられています。


また、一方、移植医療の方では、
去年、森岡正博氏が朝日新聞で書かれたように、
すでに移植のために人為的に心臓死を起こさせるプロトコルが現実となっている――。

当ブログで拾ってきただけでも、
2007年には障害者の救命より臓器保存を優先したNavarro事件、
2009年には心臓提供を前提に重症障害児の呼吸器が外されたKaylee事件など、
一応は家族の同意をとってはいますが、それ以前に病院や医師の文化において、
臓器提供が既に無益な治療論と結びついている事実を示唆しているのではないでしょうか。

例えば、Terry Shiavoさんのような状況下に置かれた人が
たまたまドナーカードを持っていたとしたら……??

さらに、もしも、この先、“臓器不足”解消のため、
みなし同意制度が導入されたとしたら……?

Savulescuが説く「臓器提供安楽死」の先に、
しかも、案外に、ごく近いところに見えているのは、
「“無益な治療”論による強制的延命中止後の臓器摘出」なのでは――?