Brown首相、Telegraph紙に寄稿:自殺幇助の合法化はやめよう

明日に公訴局長の法解釈のガイドラインの最終決定を控え、
Brown首相がDaily Telegraph紙に寄稿し、

法解釈のガイドラインで留めて、法改正まではするまい、
法改正よりも、現行法を使いこなしながら、もっと緩和ケアを充実させて、
苦しい死に対する人々の不安を解消していこう、と訴えています。

Gordon Brown: We must resist the call to legalise assisted suicide
Gordon Brown,
Daily Telegraph, February 24, 2010


個人的に響くものがあったので、
以下に全訳してみました。

過去80年間の間に、英国議会は何度も自殺幇助の合法化を検討し、却下してきた。この問題の議論がまた繰り返され、新たな提案が出されることとなった。その結論はこれまでのものと変わらないと私は確信している。

世論においては様々な事件があれこれと取りざたされて、事件が起こるたびに、まず目立つのは、何か手を打つ必要がある、という主張だ。しかし、これらの事件の1つひとつの複雑な詳細を個別に検討してみれば、自分の選んだ時に選んだ方法で死ぬ権利こそが配慮ある解決策だと思えたものも、それほど単純明快ではなく、むしろ問題だと思えてくるのに時間はかからない。

みんなが自殺幇助の権利を支持したい気持ちになるのは、自分が死にそうになった時に、どういうケアを受けられるのかが不安だからに違いないと私は思う。気になっているのは、次のような懸念だ。その時に、自分は一人ぼっちにされるのではないか? 痛い思いをするのだろうか? 尊厳も私らしさも失ってしまうのだろうか? 私のことを大切に思ってくれる人が誰もいないのではないだろうか? ただ生かされて、ほとんど治療効果などないのに死のプロセスを長引かせるだけの検査や治療をされるのでは?

私たちは、このような不安にもっとしっかりと目を向け、それらの不安に対して、これまで何をしてきたか、しっかり考えなければならない。

近年の医学の素晴らしい発展の1つは、緩和ケアという専門領域が出てきたことだ。緩和ケアについては、20世紀にホスピス・ケアの先駆者となった Cicely Saundersさんのエッセイについて調べて、私はずいぶん詳しくなった。

Saundersさんは、「不治の患者」たちがたどる運命と、彼らを見捨てい医療に憤り、画期的な研究と不屈の活動によって、人の最期の数カ月は、やり方によっては痛みのない、尊厳に満ちて、生きるに値したものになると訴え続けた。緩和ケアが現在、医療のメインストリームとして受け入れられているのは、彼女の努力に負うところが大きい。

私が魅力を感じた話がある。1969年に貴族院安楽死法案を推し進めようとして果たせなかったRaglan議員は、その後、Saundersさんと公の場で議論した。その際、彼女の話を聞いたRaglan議員は立派な態度で認めたのだ。もしも自分が必ずやあなたとあなたのチームのケアを受けることができるのであれば、安楽死の合法化に向けた活動を喜んで放棄するだろう、と。

そのようなケアを多くの人が自宅で受けることができるようになるには、まだまだするべきことは沢山ある。しかし、政府の義務とは、苦しい死への不安を最小限にすることのはずだ。

医療介入がもはや効果がなく、不快なだけで、QOLを維持することもかなわず、ただ命を引き伸ばす役にしか立たないような過剰医療への不安も、最近ではずいぶん軽減されてきた。事前指示書を書くことによって、まだ健康で頭もはっきりしている内に、誰かにお任せになることを避けて自分で決めておくことができる(コントロールと決定権を行使できる)。ある先輩医師が後輩医師に賢明なアドバイスをしたという。「病者を癒し、死にゆく者は安楽に。そして、その両者を混同してはならない」。医師も、そんなアドバイスを実行することに以前よりも注意を払うようになってきた。

しかし、これらはすべて難しい問題であり、もちろん、1つ1つの事件の中心にいるのは過酷な状況の中で、最も悲痛な選択をしなければならなかった家族であることを忘れてはならない。

そうした複雑な背景はこれまでにも指摘されてきた。明日には公訴局長のKeir Starmer氏が最終的な方針を発表して、自殺をそそのかしたり、または幇助したといった事件で、訴追するかどうかの判断で考慮されるファクターを明確にすることになっている。公訴局長として明確化するのはStarmer氏の職責であり、政府が口をはさんだことはない。

公訴局長によって法解釈の明確化が行われるからには、また、ここ数十年にケアにおいて重要な前進があったことからも、法改正を必要とする議論には以前ほどの説得力はない。

法は、ケアに当たる専門職の価値観とスタンダードとともに、最も病状の困難な患者への緩和ケアを含めた良質なケアを支持するものである。そして、我々の社会の最も弱い人々を保護するものである。なぜならば、ここで、はっきりさせておこう。選択肢としての、または権利としての死が認められたならば、たとえ法改正によって如何なる事務手続きのプロセスが編み出されたとしても、人は死ぬ、ということ(限りある生 mortality)に対する我々の考え方が根本から変わってしまうからである。

自分が他者の負担になっていると感じがちな病弱な人たちや自分で身を守るすべを持ちにくい弱者に圧力がかかるリスクを、隠微なものも含めて、完全に排除することなどできない。さらに、もしも生を終わらせる立場に立つなら、医療の専門職に対する信頼が損なわれることも避けがたい。そうなれば、とても貴重なものが失われてしまうことになるだろう。というのも、私は妻とともに地元のホスピスでボランティアをした際に目にしたケアによって、良い死というものは実際にあるのだと痛感したのだ。

だからこそ私は強く思う。社会として我々がすべきことは、良い死を可能にする、専門的で愛のあるケアを提供することだ。そして、現在の法を急いで変えるのではなく、上手に使いこなすことだ、と。


この寄稿に関する報道は以下。



また、Debbie Purdyさんの反論がこちら。


英国人の95%が支持しているというのに、
首相はその世論を尊重する気がない。

オランダと米国オレゴン州で法が問題なく運用されているというのに、
首相は英国人を信頼できないらしい。

合法化すれば英国人が病人や障害者を殺すと思っているようだが、
自分はもっと英国人を信頼している。

合法化することによって、オープンな議論が行われて
人の命は却って救われるはずだ……など。