「パリの女は産んでいる」から考えたこと

前のエントリーからの続きです。

ヌヌーとは、元は貴族やブルジョワに雇われていた乳母や「ばあや」のことで
転じて、現在は、個人に雇われるナニー、子守のこと。

 ヌヌーばかりでなく、家政婦、ヘルパーなど、家庭雇用を優先する政策は、80年代後半の失業と女性求職者の増加を背景に進められた。雇用が不安定で低賃金、女性のみの業界であることも批判の対象になっている。しかし、子育て、老人介護を負担する社会事業の発達が、働く女性(およびそのパートナー)の子供を持ちたい欲求に応え、出生率の増加に貢献したことは間違いないだろう。なぜなら、こうしたインフラが整った後の1995年に、1972年から20年間下がり続けたフランスの出生率は上向き始めたのだ。
(P.210)

著者の知り合いで、最近ヌヌーを使い始めた3人の子供の母親、セシールさんの言。

あたしのとこの子(ヌヌーを指す)は、申告してないし、労働許可もないの。経験だってないんだし、5ユーロ以上払うことはないわ。掃除もしてくれるのよ。知ってるでしょ。家政婦は高いのよ。1時間8ユーロ(約1100円)も取るもの。だからヌヌーで掃除もしてくれるのがいいのよ。ちょっと試してみて、すごくよかったら、9月から5ユーロ10サンチーム(約700円)に上げようかと思ってるの。友達にも、いろいろ聞いてみたけど、大体、5ユーロから5ユーロ50サンチーム(約750円)。一番良くて5ユーロ50ね。それ以上払うことないわよ。
(p.217)

そのほか、印象的だったのは以下の下り。

移民は一般的に高等教育を受けていない例が多い。労働許可を持っていないだけでなく、滞在許可さえない「不法滞在」のケースもある。そうなると個人で闇で雇ってもらえなければなかなか生計の道もないだろうから、雇われナニーというのは、とてもいい仕事なのだ。そうやって需要と供給が見合っているのなら、文句を言う筋合いもないのだが、それでも1つ疑問が湧いてくる。フランス女性の仕事と家庭の両立は、免状がない、あるいは行政上の書類がない移民労働者の働きに依存しているのだろうか?……。
(p.208―9)

ここは、「移民女性労働者」と書くべきところでしょう。

一方、自由と独立を求めて闘い、中絶合法化を勝ち取った世代の女性たちについて、
著者は次のように言い、

彼女の世代のフランス女性たちは、ピルと中絶の権利を手にし、「自由」と「独立」を求めて、出産、育児のような「女であることによる損」をなるべく軽減しようとし、それができた人たちだ。フェミニズムの影響下で、母性は高く評価されなかった。例え母親になっても、「子供なんかいないのと同じ」に見えることがプラス・イメージだったのだ。
(p.314-5)

そのような女性を母に持つ娘たちの世代には、むしろ
「ママンであること」はカッコいいことになってきている、と時代の変化を指摘する。

中絶が法的に許されている今、シングルで子供を産む女性は、子供の父親がいないという不利な状況で、子供を育てる責任を引き受けることを選択した勇気ある女性なのだ。彼女は尊敬されるべきことでこそあれ、差別の対象などにされるいわれはない。「自由意思による中絶」が許され、定着したことは、そういう意味でシングルマザーのステイタスを変えたともいえる。女性が職業を持って、一人でも育てられる経済力を持ったこともシングルで産むという選択を支えている。そしてそういう勇敢な女性には、尊敬と愛情を捧げる男性が、必ずと私が保障することはできないが、現れるものなのだ。少なくとも、フランスはそういうところだ。
(p.174)

しかし、どこだったか探せなかったけど、別の個所には、
フランスの男性は女性の社会進出によって家事・育児の参加時間が増えてはいない、とも
そもそも離婚率がものすごく高い、とも書かれている。

著者は最後に、現在、世界中で見られる「母性復権」の動きがあることを指摘し、
母性を一度徹底的に貶めることによって女性の地位が上がったフランスのような国では
むしろ歓迎できる動きであるにせよ、

未だに女性が子育てに縛り付けられていて、
子どもを産み育てにくい社会のままである日本までが、この動きに飲み込まれると、
せっかく子供を持たないことで自由になりかけた女性たちが
「母性」に縛り付けられて窮屈になってしまうのでは、と懸念している。


          ――――――


「男による解説」で山崎浩一という人が、
著者が描いた、子供を産み育てやすいフランス社会について
「フランスの家族は自立した大人の欲望の上に作られる」のだと興味深い分析をしている。

この本を読みながら、ずっと
「ケアの絆 - 自律神話を超えて」で考えたことが
頭の中によみがえり続けていたのだけど、

ここでも「自立」という言葉が出てきているのが目を引いて、

そこには、
「たまたま自力で自立することが可能な状況にある大人」と
さらに言葉を追加したい……と私は思った。

この本には、家事も仕事も子育ても軽やかにこなしながら、なおかつ
夫のために、シックで魅力的な大人の女性であり続けるフランスの若い女性たちの姿と、
そのためには家事も仕事も子育てもアウトソーシングすることが可能な制度、
また、それを許容・奨励する社会の意識が描かれているのだけれど、

フランスの女性は本当に「職業を持って、一人でも育てられる経済力を持った」のだろうか。

アメリカでも日本でも、
シングルマザーは社会のいびつさを一身に引き受けさせられているように見えるのだけれど、
フランスだけは違うのだろうか。

フランスが如何に子どもを産み育てやすい社会であるかを描き続けた著者が
いよいよ本書の終わりになって、まるで大したことでもないかのように紹介しているのは
3歳児以上が増えているのは、実際には高所得層だ……という統計。

「金持ちの子沢山」へとトレンドは変化しているということか……と最後になって
無邪気なつぶやきが追加されているのだけれど、

それならば、それは、本当は「パリの女は産んでいる」のではなくて、
「パリでは、金さえあれば、なんてことなく子どもが産み育てられる」
ということに過ぎないんじゃないだろうか。

この人は、代理母について、以下のように書いている。

……あれは抵抗がある、禁止する法律は正しいんじゃないか、と思っていた。けれども「代理母」になる人も、卵子提供者と同じような同情心の持ち主らしい。姉妹や親友など、身近な人の中に、子宮に問題があって子供が持てない人がいたりして、そういう人の苦しみを救ってあげたいと思った人が多いようだ。私は「代理母」になるほどの共感能力を持ち合わせていないが、自分のからだを「貸す」ことが割り切って考えられるのなら、子供をほんとうに欲しがっている人たちを幸せにすることは悪いことではないと思う。
(p. 101)

自分がたまたま自力で自立と独立を手に入れることができるところにいる人たちは、
世の中の人はみんな自力で自立と独立を手に入れることができているのだという前提で
もしくは「能力と努力をしたから運とは無関係に自分はここにいるのだ」という前提で、
つい、ものを考えてしまう。

そして、たまたま自力では自立することのできない状況に置かれている人のことには
想像が全く及ばなくなり、その結果、無意識のうちに切り捨ててしまう。

そして、そういう人たちの“欲望”を中心に、
経済だけじゃなく科学とテクノのグローバリゼーションとネオリベもまた
前へ前へと押し進められていく――。