「医師の道徳的な義務とは自身に対して負うもの」と“Ashley療法”の線引きを突き崩すTan論文

11月号のMedical Ethics 誌に“Ashley療法”を論じた論文が掲載されています。

Agency, duties and the “Ashley Treatment”
N. Tan, I. Brassington
J Med Ethics 2009;35:658-661

リンクはアブストラクトのみですが、
この情報を教えてくださる方があり、また快く入手の労をとってくださる方もあって、
おかげさまでフル・テキストを読むことができました。

今までAshley事件に関する論文をいくつか読んでくる中で
事実関係をきっちり把握せずに書いたものがあまりにも多いことに
ちょっとゲンナリしていたのですが、この論文は
事実関係を整理してある冒頭部分が割りとがっしりしていて
資料をちゃんと読み込んで書かれていることに、まず信頼感があります。

Ashley療法をめぐる親と医師らの主張の倫理問題として指摘されているのは
Ashley本人の利益と親の利益とが重ねられていること、
性的虐待は乳房切除では防げないから理由にならないこと、
環境を変えたり、非侵襲的な方法で問題解決が可能であることなど、
これまでも批判されてきたのと同じ点なのですが、

この論文が非常に興味深いのは、この後に展開される哲学的な考察で、
“Ashley療法”批判としては全く新しいツッコミが行われています。

父親や医師らによる“Ashley療法”正当化の基盤に置かれているのは
Ashleyは知的能力を大きく欠いているので他の人と同じ扱いをする必要はない、という論理ですが、

そこを論理的に否定していく議論がやっと登場してくれました。

この論文は「自己決定能力と人格(personhood)」を便宜上 agency と呼び、
agencyを持ち合わせている存在のことを agent と称するとしたうえで、
Ashleyが仮に agent ではないとしたら“Ashley療法”は正当化されるかどうかを検証し、
2つの論点から、正当化できないという結論を導きます。

まず、最初の論点は概ね以下の通り。

Ashleyがagentでないとすれば個人として扱われないことになるので、
全介助で親に全面的に依存していることと合わせ考えれば
彼女を個人としてではなく家族という単位の一員としてのみ捉える点で
医師は間違ってはいないかもしれないが、

一方、家族という単位を
Ashleyに対する医療行為の道徳的な判断の対象とすることはどうなのか。

それぞれagentである構成員の集まりではあっても、
家族という単位そのものには agency の持ち合わせはなく、
したがって家族という単位は agentではない。

その non-agent である家族を医師が道徳的な判断の「直接の」対象とするというならば、
同様に non-agent であるAshleyにも同じ姿勢で臨んで然り、ということになる。

医師らの正当化が家族全体の利益を言っているわけではなく、
介護者としての親の利益がAshley本人の利益と分かちがたいと言っているわけなので、
この論理では、否定するには、ちょっと弱いのではないかという印象も受けるのですが、

しかし、この論文の眼目は、なんといっても次の論点にあって、

ここでは、著者らは、“Ashley療法”の正当化論には
道徳的な agent (この場合は医師)が道徳的に振舞うのは、
自分の善行の受け手が道徳的な地位を有しているからだ、との前提があると指摘し、

次のように論じていきます(逐語訳ではなく、概要です)。

しかし、我々が道徳的な agent として求められる「道徳上の義務」とは、
我々の善行の対象が agent であろうと non-agent であろうと
それに関わりなく果たすべき義務のことである。

なぜならばカントが言うように、その義務は
他者に対して負っているのではなく自分自身に対して負っている義務であり、

自分に対して負っている主たる義務とは
ヒューマニティ、すなわち道徳的なagent として行動する能力を保つことだからである。

カントによると、
動物に対して残虐な行為を行ってはならないのは、
それによって、その人が動物の苦しみを感じとる感性を鈍らせ、ひいては
人間の他者との関係において道徳的であることの基盤となる生得の性質を
根絶やしにしてしまうためなのだ。

つまり、我々の道徳上の義務とは
たとえ自分と non-agent しかいない状況に置かれたとしても、
道徳的に振舞うことを求められる義務なのである。

この義務によって、医師の行為も相手の道徳的な地位に負うものではなく
常に一貫しているはずの自分自身の道徳的な地位に負うものとなり、

したがって、患者が non-agent であろうと、
agent である患者にしてはならないことは non-agent の患者にもしない義務を
医師は自分自身に対して負っている。

またカントは正当な理由なく行動することについても同様に、
人間が人間らしくあるという、自分自身に対する義務を侵すことにつながるとして
我々には正当な理由のない行動をしない義務があるとしている。

ある理由によって行動しないことから、行動しない理由が生まれるのだ。
Not acting for a reason generates a reason not to act.

(この1文、心に残りました。自殺幇助や出生前遺伝子診断の問題をはじめ
多くの生命倫理の議論に通じていく、とても深いものを含んでいるのでは?)

将来の生理痛や病気や妊娠など、起こるかどうか定かでない苦しみを理由に
Ashleyに外科手術の苦しみを負わせることは
正当な理由なく、non-agent に無用の苦しみを与える行為であり、
二重の意味で医師が自分自身に対して負っている道徳上の義務に反している。

我々の人間としての義務とは、徳の問題であり、権利の問題ではないのだ。

そして、著者らは次のように論文を締めくくります。

このように考えると“Ashley療法”には多くの懸念があり、
それら懸念には更なる検討(investigation 調査?)が必要である。
その検証(調査?)が行われれば、その結果は
ただ一人の障害児に何をしていいかという問題を超えたところにまで波及するだろう。


私個人的には、Ashleyがパーソンではないという立場はとらないので
以下の1文には相当な抵抗を感じました。

Whatever, precisely, agency turns out to be, it is reasonably clear that Ashley lacks it.

ただ、この論文の論理展開は、もともと
医師らがAshleyを他の人とは違うと線引きした上で、すべての正当化を行っていることから
その土台となっている線引きを論理的に突き崩していこうとするものなので、
仮にAshleyが non-agent であったとしても……という
論理の進め方として理解しました。


もう1つ、たまたま、ここ数日で
遺伝子検査によってネオ優生思想というべきものが既に定着しつつあるのではないかと
気持ちが重くなるような情報を立て続けに拾っていたこともあって、

「道徳上の義務」とは
ヒューマニティを失わずに、道徳的な agent でありつづけるべく、
自分自身に対して負っている義務である、というカントの定義を
(私はカントを読んだこともないので理解が十分だとは思わないけど)

人類がヒューマニティを失わず、総体として道徳的な agent であり続けるべく
人類総体として、またその一員たる個人として、我々には人類自身に対して負っている義務がある、
それは権利の問題ではなく、人類としての徳の問題である、というふうに
敷衍することはできないだろうか……と考えてみたりする。

だって、
英語圏生命倫理が人間の間に線を引き、分断し、
「ここから向こうは別の人」だから「尊厳を無視してもいい」
「死なせてもいい」「殺してもいい」とすることが

総体として人間社会が本来もっていた思いやりや共感や寛容や、
つまりはヒューマニティを損なっていっているのではないのか。

自己決定権・自己選択・自己責任を隠れ蓑に蔓延する
科学とテクノの簡単解決万歳文化と、それに影響された能力至上の価値観、
それらに拍車をかけて人命軽視のまま暴走する巨大利権構造、
切り捨てられ踏みにじられる犠牲者を加速度的に増やしながら、
誰も勝ち目のない国際競争に駆り立てられていく世界――。

今の人類世界が良い方向に向かっていると本当に信じられている人って、
トランスヒューマニスト以外に一体どのくらい、いるんだろう……?

この論文から、そんなことを考えました――。

やっぱりAshley事件とは、
この時代のあり方と、その背後に動いている勢力や利権のありよう、
それらによって世界が動かされていく方向を示唆して、
とても象徴的な事件なのだなぁ……と、改めて思います。