「脳が不変だから子どもも不変」の思い込みで貫かれている……A療法の論理に関する重大な指摘

ここしばらく、とても熱っぽい“Ashley療法”批判を展開してくれるブログがある。
ブログ主はカナダの重症児の母親 Clairさん。

最近、Ashleyの父親のブログを最初からもう一度じっくり読み直してみたという
14日のポストが面白い。

Working Through Issues on the Ashley “Treatment”
LIFE WITH A SEVERELY DISABLED CHILD
December 14, 2009


障害による不便や不快を一つずつあげつらって、それをテクニカルに排除していくことを考えるなら、
口からモノを食べないAshleyの歯はみんな抜いて虫歯の痛みから永遠に解放してあげればいいし、
そんなの、他にもいっぱいあって、キリがない……という指摘が一つ。

でも面白いのは2つめの指摘で、
父親のブログには「脳が不変である以上、娘も不変だ」という思い込みがある、と。

ここで私が「不変」と訳しているのは原語では static 。
 
一般的には「静的な」という意味の形容詞だけど、
Ashleyの診断名である static encephalopathy の static とは
動きがない、つまり不変・不治・不可逆な脳の損傷を意味している。

Clairさんは、その static を使って父親の思い込みを鋭く突いているわけで、

「脳こそ、その人を決定付けているすべて」という今の脳科学の思い込みや
「能力や資質・遺伝子があるかないか」だけにこだわる決定論にも通じて、いかにも鋭いと思う。

そして、医師や専門家には分からないとしても、すぐ側で見ている親なればこそ、
障害はあっても我が子がちゃんと成長し変わっていることに気づくでしょーが、と
自分の娘の実例をあげて突っ込んでいく。

このあたり、当ブログでウチの娘のエピソードを通じて
ずっと書いてきたことと同じ。(例えばこちら

私もつい最近、ある人とのやり取りの中で
「あなたや私と同じ分かり方ではないかもしれないけれど、
その人なりの分かり方をしている」という書き方をしたのだけれど、

Clairさんが言おうとしていることも、そういうこと。
だから「精神年齢」なんて、そう簡単に決めてはいけない、と。

私はこの人が書いている結論部分の、以下のところがとても気に入った。

Cognition is not static, nor is it measureable in a non-verbal child with severe multiple challenges.

認知は不変ではないし、
重症重複障害があって言葉のない子どもの認知は計測できるようなものではありません。


上記部分を頭の中で反芻していたら、
私には次のような言葉が浮かんできた。

認知は static ではない。
発達も static ではない。

人の心も決して static ではない。

人が環境の中にあり、人との関わりの中にあり、そこに経験がある以上
人の心は成長し、成熟し続ける。

認知も含めた総体として、人は成長し、成熟し続ける。
障害があろうとなかろうと──。



むしろ、脳と遺伝子がすべてを決めると考えて、
科学とテクノの簡単解決で物事をばっさばっさと片付けていこうとする方向に
もんどりうって雪崩れ込んでいくかのようにみえる現在の世界のほうが、
人間社会として“成熟”し続けることを放棄しようとしている──。
私には、そんな気がする──。