「インドで考えたこと」で考えたこと

この前、新聞で、“生活リハビリ”の提唱者であるカリスマPTの三好春樹さんが
堀田善衛氏の「インドで考えたこと」を読み、死生観を考える点で今こそ面白かった、
と言っているのを読んで興味を引かれたので、読んでみた。

刊行は1957年。
堀田氏がインドを訪れたのは、その前年。私が生まれた年だ。

堀田氏はインドで開かれた第一回アジア作家会議に日本代表として参加し
今のような経済発展など想像もつかなかった半世紀前のインドの
とんでもない貧困と混沌とが、ただあるがままに、そこに放置され、
貧困と混乱と悲惨のままに、人がただ生きていくしかない目の前の生を生きている、
その情景の迫力に圧倒される。

優れた作家の目というものは一瞬にして普遍的な本質を鋭く捉えるんだなぁ……と感じ入り、
同時に、「なんて今日的な問題なんだ、これは……」と目を見張ったのは
第1章の次の下り。

……そして街頭のいたるところに、人間がごろりと寝ている。なかには死んだ人もあるかもしれないが、人間は、どこにごろごろと寝ていても、決して物になることは出来ない。人間は、どんな環境の中にいても、砂漠にいようが水上にいようが、カルカッタの街頭に寝ていようが、それで幸福だろうが不幸だろうが、そんなこととは一切かかわりなしに、どこまでも人間は人間であるという、単純な、そして人は恐らくバカげた言い分というものだということだろうが、この単純な命題が異様な迫力をもって私にせまって来た。(p.14)

ここを読んで、すぐに頭に浮かんだのは、

1956年の世界には(少なくとも一般人の頭には)、まだ臓器移植医療は存在しない。
南アフリカのバーナード医師が世界初の心臓移植を行ったのは1967年のことだ──。

おのずと、その後の私は、この本を
このブログで考えてきた生命倫理の諸問題という文脈に据えて読んでいったのだけれど、
53年前に日本の作家が考えたことは、ちっとも古くなっていないことに驚く。

堀田氏は作家会議事務局のメンバーとして、アジア各国の作家たちと一緒に働きながら、
アジアと西欧、その中での日本について考え続けている。

事務局に集まっているのは自国ではそれぞれに著名な作家や詩人たちだ。
それなのに、お互いに相手の文学や作品については何も知らない。
一方、西欧の作家については誰もが知っているので、
西欧の作家論を語り論じ合うことを通じて、相手のことを知ることとなる。
もちろん話し合うための唯一の公用語は英語──。

そこでは西欧世界に名が知れていることのみが
権威ある人物であり、著名な人物である証しであったりもする。

われわれの、そしてこれまでのアジアの文学者の、えもいわれぬ悩ましさが、ここに恐らくむき出しになっている……。西欧が、十六、七世紀の頃からアジアに押し込んできて以来、この場の激論に至るまで、アジアは西欧に対する否定と対立のかたちでしか、自己の存在証明が出来ないという場が、政治についてはもとより、非常に広い場において、存在した。(p.34)

この「えもいわれぬ悩ましさ」、本当は文学者だけではなく、
あらゆる分野の研究者が現在でも感じているのでは……?

生命倫理の分野でも、ちょうどAshley事件の頃の森岡正博氏のブログに、
英語で行われる学会で英語圏の優位が揺るがないことを巡る悩ましさが書かれていた。

(もっとも、そこに疑問をもつことすらできない学者さんたちが多すぎることも
本当は大きな問題なのかもしれないのだけれど)

英語圏の“科学とテクノ万歳”文化と
そのイデオロギー装置としての生命倫理のグローバリゼーションは
堀田氏が53年前のインドで拾った“コカコーラレーション”という言葉が意味するものと
たぶん、本質的には違わない。

しかし堀田氏の考察は、ここから、さらに
アジアと西欧の対立の中で日本はどうしてきたのか、という方向に転じられていく。

ヒマラヤを臨みインドの全平原を見渡す展望台で、氏は
「極東の日本と西欧地中海世界との間」にある「この広大なる地域」のことを考える。

……文明文化における近代史現代史的秩序においては、われわれ日本人は、この広大なる地域を、たとえば腰にぶらさがっていたオモシを。ドサッとばかりおっことしてしまうような工合で、もっぱら西欧に取り付いた。……中略……
アジアは、われわれからおっこちてしまったのである。しかし、まるでおっこちてしまったわけではあるまい。まだ遅くはないであろう。ベンチに座っていて、私は、たとえば足のない人が、手術なんぞで切りおとしてなくなってしまったその足が疼くという、あの気持ちを味わった。ない足が疼く、あるいは痒くなる。その痛みや痒さをどうにかしようと思って手を出そうとすると、その足は、伝統として、歴史として、古代史、あるいは上代史的な精神秩序として、実在としてあるにはあるけれども、近代現代的な精神、文化の秩序としては、ないみたいな気がしてくる、あるいは、あってもらっては困るような気がして来る。古代上代史的秩序における同質性と、近代史現代史的秩序における異質性。(p.83,84)

ここで日本とアジアの同質性を幻肢に例えた堀田氏は
この後、そのことを浮き彫りにするような現地での体験をつづりつつ考察を深めた後に、
また次のように書く。

……われわれ日本人は、アジアから訣別することによって近代日本というものを獲得したものであるらしい。近代日本はそれでいい、しかし、次の時代の日本ということを考え、想像のエネルギーを汲みとるべき源泉について考えるとき、近代、近代化というだけではまったく足らないものがあることを、否でも応でも見せつけられるはずである。
 私は近世及び近代の日本が、宗教から離脱してしまったことをわるいとは決して思わない。それは必然的であり、むしろ良いことであると思う。……しかし、われわれの生活信条の底の方にのこっている、そして日本の精神的風土の根もとをなしている土着信仰のようなものが、表現の世界にまだ定着されていないこと、このことはもっと考えられていいことであると思う。(p.123)

この話もまた、現在でも「表現の世界」だけに終わらない……。
このあたりを読みながら私の頭にずっとあったのは、7月の脳死・臓器移植議論だった。

日本の臓器移植議論が誰にとってもどこか一点、居心地の悪さをぬぐえないのは、

どこまで行っても人間は物にはなれない……という感覚を
「いや、そんなのは“幻肢”に過ぎない。ないものはないんだ。
そんなものに拘泥して救える命を救わないのは非科学的だ」と
ばっさり切って捨てる移植医療の合理性や
脳科学と遺伝子ですべてが解明・解決されていくかのような
今の科学とテクノの語り口調に対して、

堀田氏の言う「古代上代史的アジアとの同質性」とか
「日本の精神的風土の根もとをなしている土着信仰のようなもの」に
「まだ定着していな」かったり、少なくとも折り合いがついていないにもかかわらず、

「近代史現代史的秩序の異質性」だけでもって
突き進んでいこうとするブルドーザーのような剛力に
われわれが違和を覚えて戸惑うからじゃないんだろうか。

堀田氏は後半、「悪ずれした日本人(sophisticated Japanese)」という言葉を使い、

……一方で原水爆核兵器を禁止せよ、と世界に訴えながら、他方では、自分だけは将来核兵器を持つための途はあけておきたいという、一部の人たちの考え方などは、この悪ずれの典型である。それは、アジアの開放を旗印にしながら、ちゃっかりアジアを帝国主義的に支配しようという、太平洋戦争の悪ずれ方と歴史に軌を一にしている。(p.157)

そして、近代日本の政治のもつ「二重性」を指摘して、言う。

……そしてこれは、単に政治だけではなく、より根本的には近代日本人の心性そのものが、こんな工合いに表裏反対のものをもち、従って根本的な問題はつねにこの二重性の谷間につきおとされて、ウヤムヤになってしまう、ウヤムヤにしてしまう。つまりウヤムヤのうちに時間がたち時代と流行のようなものが変われば、それで済んだような気になる──こういう心性、こういう時間と歴史のおくり方をわれわれはどこから得てきたのか。(p.158)


今、事業仕分けで問題になっているスーパーコンピューターの問題が象徴的だと思うのだけれど、
科学とテクノのグローバリゼーションとネオリベラリズム
もはや経済とそのまま重なって世界中を覆い、

インドも日本もアジアも、その過酷な競争から1人逃れるというは不可能で、
アジアの誰もが悪ずれすることを余儀なくされている点は
堀田氏がこれを書いた53年前と異なっている。

たぶん、そういう今の科学・テクノと経済の弱肉強食競争の中では、
悪ずれしたくともできなくて取り残されていくアフリカや一部アジアの国々が
堀田氏の時代の「アジア」に当たり、
インドも中国もベトナムも悪ずれに成功して、
当時の日本の後追いをしている……ということなのかもしれない。

(日本の障害学がアジアやアフリカにこだわっている理由が
このあたり、また少し、分かったような気がする)

「少なくとも公の議論となる英米よりも日本で起こっていることのほうが
実はコワいのかもしれない」と当ブログが何度も書いてきた、そんな懸念は、
堀田氏が53年前に指摘した「二重性の中でウヤムヤ」という日本人の心性そのものだ。

「西欧」で起こっていることの詳細な事実も情報も表立っては知らされず、
誰も知らないところで学者や研究者、いわゆる“専門家”が細々と議論しているうちに、
いつのまにか世論はメディアに巧妙に誘導され、
違和を覚えつつも、やっぱり「西欧」を仰ぎ見て追いかけていく方向へと、
なし崩しのウヤムヤのうちに、なんとなく押しやられていく。

足を切断して、ないはずの足が疼く、痒い、と違和感を訴える人を
「そんなものは幻肢だよ。ないものはないと自分で納得するしかないんだ」と叱りつけ、

とてもよくできた美しい人工の足を持ってきて
「さぁ、これをつけて歩いてごらん、すべては元通り。ハッピーじゃないか」
と言って終わりにしたい人たちにとっては、その幻肢は「あってもらっては困る」のだろう。

でも、その幻肢の存在と向き合って、なぜ、幻肢があるのかということや、
その幻肢がその人にとってどういう意味を持つのかといったことにも、ちゃんと対処しなければ、

人工の足をつけて歩きながら、
その人には折り合いがつかない部分が残るということなんじゃないだろうか。

折り合いがつかないものを抱えたまま、
二重性の中で生きてきたから、意識のうえではウヤムヤにしていても
意識下では、その相反する2つが激しく葛藤していて、
だから戦後の日本の社会は精神分裂的なんだというのは……

そう、そう。
たしか岸田秀さんの説だった──。