Diekema & Fost 論文を読む 4:窮鼠の反撃?証明責任の転嫁

4月のDiekema & Fost 論文の眼目は、
これまで出てきたAshleyケースに対する批判の論点に対して反駁する、というもの。

主要な批判の論点を25点挙げて、それに1つずつ反駁して見せた後、
(一つ一つは相変わらず論理が飛躍していたり、ウソやマヤカシに満ちていて
とうてい反論として成立していないのですが)

以下のように結論します。

While the arguments discussed here provide strong reasons for proceeding carefully and thoughtfully in future cases that might arise, we do not feel these arguments provide sufficient grounds to preclude similar use of these interventions for carefully selected patients who might benefit from them.

ここで取り上げた議論は、将来のケースでは慎重に、十分に配慮しつつ対処する強力な理由となるにせよ、これらの介入によって利益があると慎重に選択した患者への同様の介入を禁じるだけの十分な根拠を提示しているとは我々には感じられない。

ったく、笑わせてくれる。
これでは話がまるで逆というものでしょう。

これらを禁じるに足りる議論を提示する責任が、
Ashleyケースを批判する人たちにはあるわけではない。

説得力のある議論を提示する証明責任を負っているのは、あなた方のほうだ。
前例のない医療介入を怪しげな倫理委の検討でやってしまったのは、あなた方なのだから。

重症障害児へのホルモン大量投与による成長抑制療法と子宮摘出、乳房切除について
倫理的に妥当とするに足りる根拠となる議論を提示する責任が、
第一例を倫理委員会として承認し実施した、あなた方に、まず、あるのだ。

読んだところ、例えばAnn McDonaldさんから出てきた
「どうやってAshleyの知的能力を測ったのか。それを知る努力を十分にしていない」との批判を始め、
どうにも反駁できそうにない論点は省かれているけれど、
(そのくせAshleyの知的レベルに月例相当の表現を用いることは
この論文では巧妙に避けられて抽象的な表現に留まっている)

それでも、あなた方の言う「実質的な意味のある批判」の論点は
あなた方自身の分類で25にも及ぶ。

その批判の論点の多さこそ、
あなた方の議論がAshleyケースを正当化するに足りる根拠を提示していない証拠でなくて
いったい何だというのだろう。

事件から2年余りも経ってなお、あなた方が、こんな論文を書いて、
批判の論点に反駁をしなければならないこと自体が、
第1例に関する証明責任が果たされていない証拠ではないか。

それなのに、
あたかも批判する側に証明責任があるかのように転化してみせることによって
追及されているのが自分たちである事実を隠蔽し、立場の逆転を図ろうとする。

なんという鉄面皮なのだろう。


それとも、もしかしたら、彼らは相当に追い詰められているのでしょうか?????

そういえば、故Gunther医師も同じ論理を振りかざしたことがあった。
2007年1月7日のTimes紙へのインタビューでこんなことを言っている。

If you’re going to be against this, you have to argue why the benefits are not worth pursuing.

もしもこれに反対だという人がいるなら、その人は、なぜ、この療法の利益を追求してはならないかをきちんと論じて見せなければならない。

Gunther医師は、私の知る限りでは、この発言以降、メディアとの接触を断ち、
その後、表に出てくるのはDiemeka医師一人となった。

当時、私は、Gunther医師の方はこの時点で、もう正当化し抜く自信も余裕も失っていたのだな、
それで病院が彼を引っ込めてDiekema医師一人に正当化を任せたのだな、と、
この言葉を振り返っていたのだけれど、

彼はその後、5月のワシントン大学のシンポにも姿を見せず、
そして、9月30日に自殺した。


この論文の結論は、あのGunther医師の物言いとそっくり――。

もしかしたらDiekema医師とFost医師も追い詰められているのでしょうか。

そういえば、成長抑制療法の一般化については
子ども病院は正当化のためにワーキング・グループを召集していたし、
そのWGの“妥協点”を元に今年の初めには奇妙なシンポジウムまで開かれたのに、
あの一連の流れは、その後どうなったのだろう。

この事件では、どうも病院の対応が二転三転するのだけれど、私には、それが、
病院 vs Diekema医師(もちろん背後にAshley父とFost医師がいる)という
意思決定における微妙な対立があるためだと思えてならない。

つまり、病院の意思決定が
その対立の影響で覆されてシーソーのように二転三転しているのではないか。

病院側の動きと、Diekema医師の動きとは、
それほど、ちぐはぐで、まったく噛み合っていない。

Diekema、Fost両医師は
4月にEthics誌にこの論文を発表してAshleyケースを正当化し、
さらに6月には小児科学会誌に成長抑制一般化正当化の論文と、
今年に入って立て続けに論文を書いているのだけれど、

いずれも、ワーキング・グループに自ら名を連ねていながら、
そのグループの議論が進行しているのと平行して
しかし2人だけで独自に書いていたことになる。

それ自体、とても不自然で、不可解な行為だ。

まるで、病院の思惑や意思決定とは全く別のところにある意思によって
もっと性急に、もっと独善的にコトを進めるように尻を叩かれるものだから、
病院サイドの悠長な動きなど構っていられないとばかりに
ジタバタと手を打つことに必死になっているかのように──。