Picoult作品のモデル、NH州のロングフル・バース訴訟

前のエントリーで取り上げた Jodi Picoultの作中新聞記事で言及されていた
2006年のNew Hampshire州でのロングフル・バース訴訟最高裁判決について、
以下の記事を見つけたので、読んでみました。

Picoult作品のモデル(少なくともそのひとつ)と思われます。
NH州で最高裁まで行ったロングフル・バース訴訟の2例目。

まず、記事から事実関係を拾ってみると、

Sherry Hall さんは2000年12月に妊娠。
3ヵ月後の検査で胎児にトリソミー18を思わせる兆候があったため
Dartmouth-Hitchcock Medical Center(DHMC)の遺伝カウンセラーに紹介された。

超音波検査では手を握り締めている(障害のサインの1つ)他の以上はなかった。
医師は羊水穿刺を薦めた。

その際にSherryさんは医師に、
検査で染色体異常があったら中絶すると伝えた。

検査結果が出るまでの2週間を待ちきれず、1週間後に
Sherryさんは遺伝カウンセラーに中絶したいと希望し、
カウンセラーから結果を待ってから決断するように説得される。

羊水穿刺の結果には特に異常はなく、トリソミー18は否定された。
カウンセラーは2001年3月20日に「正常で健康な男の子」と夫妻に電話。

しかし、その一週間後の定期診断の超音波で
手を握り締めていることに加えて足にも奇形があることが判明し、
カウンセラーは羊水の残りを保存するよう病院に依頼した。
しかし、そのことについてはHall夫妻に告げなかった。

夫妻が病院から連絡を受けたのは4月24日になってからで、
このとき既に妊娠24週。DHMCが中絶を引き受ける期限は22週まで。
(ボストンの病院によっては24週まで引き受けるところもないわけではない)

さらに超音波検査を受けた後、
医師の説明では心臓や脳にも異常がある可能性があるが、
障害の程度はまったく分からない、とのことだった。

Hall夫妻は病院を替えて再検査を受けたが、
特に大きな異常は見つからなかったので、生むことにした。

7月25日に生まれたBrandon君には先天異常がいくつもあった。

そこで臍帯血の検査で“大変な注意を払って異常を探した”ところ、
やがて非常に珍しい染色体の異常、partialトリソミー9qだと分かった。

Sherry & Brad Hall 夫妻が訴えたのは
DHMC、羊水検査を行った遺伝検査ラボの責任者と、その雇用主であるDartmouth大学。

主張されたのは、
検査ラボについては、胎児の遺伝型が正常でないのに正常と報告したことの過失。

病院については、その遺伝カウンセリングチームが
夫妻が期限内に中絶するかどうかの「インフォームされた決断」ができるように
「完全で正確な」情報を提供しなかったことの過失。

2004年、上級裁判所の陪審員
検査ラボとD大学については過失を認めなかったものの
DHMCについては過失を認め、2300万ドルの支払いを命じた。

病院はこれを不服として最高裁に上訴、
2006年に最高裁は上級裁判所の決定を覆した。

裁判官は
医療職が子どもの異常について「可能性が大きい(increased possibility)」を知らせずに
重大な欠損のある子どもが生まれた場合、夫婦はロングフル・バース訴訟を起こすことができるとした
1986年のNH州の判例を引いた。

父親は「あなたの赤ちゃんはここが異常だから中絶を考える必要がありますよ」と
病院はいってくれるべきだったと主張したが、
裁判官は、その夫婦の主張には、権威の裏づけがない、と述べた。

裁判の中で父親は
「Brandonにコミュニケーションの能力があったならば
自分は生まれてきたくなかったというはずだ」とも語った。

生殖法の専門家は、
これほど稀な異常でなかったら、くつがえらなかったかも、と。

ちなみに当時5歳のBrandon君には
重症の知的障害があり、経管栄養で、歩くことができず24時間介護とのこと。

‘Wrongful birth’ case overturned
The Concord Monitor, April 28, 2006


実はPicoultは小説の中に、この記事の一説をほぼそのままの形で使っています。
前のエントリーで引用した作中の新聞記事の一説や障害者アドボケイトの発言がそれです。

ただし、Picoultが
元記事にある「女性の中絶権はこの議論の中にどう位置づけられるのか」という一文を
作品では外していることが、目を引きます。

また、もう1つ、読んだ時から、ちょっとひっかかっている点として、
Picoultの作った“重症障害児”ウィロウは
身体的な障害のために正常に発達できず生涯にわたって苦痛を味わう宿命を背負っており、
生まれてこないほうが本人の幸せだったという理屈が
正当化できると感じる人もいるかもしれない病気に設定されている反面、

非常に頭がよく機知に富んで、
外見的にも性格的にも愛くるしくて誰からも愛される子どもに造形されています。

適切なケアと支援さえあって、もしも成人として生き延びることができたら、
彼女は十分に豊かな人生を送ることができる女性になるだろうと感じつつ、
読者は物語を読み進んでいくでしょう。

このようなウィロウ像に、
さすがに作家の人物造形の妙だなぁ……と感心すると同時に、
なんとなく、ちょっとズルくない?……とも考えてしまうのは、
やっぱり私が重症重複重症児の親だからでしょうか。

もちろん本人に知的障害がないからこそ、
親が「知っていたら中絶したのに」と証言することのジレンマもクローズアップされて、
小説はそれだけドラマチックになるわけですが、

ラディカルな生命倫理がやっきになって
知的・認知機能によって人間に線引きしようとしていることを思うと、
私としては、ちょっと、こだわってしまう……。

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もう1つ、上記記事が指摘している問題として、
遺伝子診断で現在分かる異常は1000種類にも上っており、
医療サイドはそれらの検査で一体どこまでライアビリティを問われるのか、と。

これは、私もロングフル・バース訴訟について考える点で、

医学というのは、あくまでも確率の学問だし、
臨床の現場は、私の患者家族体験では、不確実なことの中での模索の積み重ねなので、
こんな訴訟がまかり通ると、医療なんてやってられないんじゃないか……と。

この辺り、
研究者の論理や利害と、現場医療職の論理や利害とは、
もしかしたら分けて考えないといけないのかな、と。

科学とテクノの論理と利害が世の中にばらまいている科学とテクノ万能の幻想においては、
「万能」なんだから、それは「確実」性の保障もそこにくっついているかのように
世間の人々はたぶらかされてしまっているわけだけど、

実は医学を含む科学とテクノの論理と、現場の医療の論理は別物であって、
前者が優位になって世の中の価値観が「科学とテクノでイケイケ」に傾斜しすぎると、
現場の医療は逆に、その「万能・確実」幻想に
追い詰められることになるんじゃないのかな……。