BBCラジオ看板キャスターが「自殺幇助合法化せよ」と新刊書

BBCラジオの看板番組Todayを担当する大物キャスター John Humphrys氏が
新刊書The Welcom Visitor: Living Well, Dying Well(4月2日刊行)で
自殺幇助の合法化を訴えているとか。

出版を前に3月29日に
TimesにはHumphrys氏へのインタビュー記事、
The Observer(the Guardianの日曜版)にはHumphrys氏自身の寄稿記事が掲載されています。


My father deserved a better way to die
By John Humhrys
The Observer, March 29, 2009


Humphrys氏の主張はおおむね

自殺幇助が違法行為とされる英国で
現実には終末期の患者には死を早める治療が行われていたり、
スイスに家族を連れて行って自殺させる人たちが実際には罪に問われないなど、
きわめて英国的な妥協点として偽善が横行している。

しかし、このままではスイスに行くだけの体力も資力もない人は
苦しみ続けるしかないことになって、フェアではない。

またオランダや米国のオレゴン州ワシントン州尊厳死法の実態からしても
自殺幇助を合法化すれば「すべり坂」になるとの懸念は当たらない。

自分の父親の晩年はアルツハイマーで本当に悲惨だった。
あんな酷い状態では、自分でもきっと死にたかったに違いない。
あの時、なぜ父親が死ぬ手助けを自分はしてやらなかったのかと悔いている。

幸い父は最終的には、心ある医師によって死なせてもらった。
自分の時にも、そういう医師がいてほしいし、それが合法であってほしいと望む。


2つの記事を読んで一番強く感じたのは、
BBCの看板番組を担当して歴代首相に辛口インタビューを行ったというキャスターが
なんで、こんな何もかも“ぐずぐず”の文章を書き、
こんなにも論理性を欠いた主張ができるんだろう……ということ。

まずHumphrys氏の父親の晩年がどういうものだったかを確認しておくと、

父は妻を失ってから酒びたりとなり、
それはまるでアルコールで自殺しようとしているかのようだった。
実際に、あわや死に掛ける場面もあったのに、
医師らはわざわざ生き返らせてしまった。
なぜ、そんなことをするのか。

その後、父はアルツハイマー病となり、
さまざまな施設を転々とした。
劣悪な精神病院に入ったこともあった。

かつては誇りに満ち、独立自尊の人だった父があんな惨めな姿になり
何時間も「助けてくれ」と叫び続けていた声が
私には未だに忘れられない。

ついに最後の施設で医師が死なせてくれた。


この人、本当に分かっていないのでしょうか。

自分が主張するようにOregonと同じ尊厳死法ができたとしても、
自分の父親のような人は依然として対象外なのだということを?

妻を亡くした人が酒浸りになってアル中になるなら
それは心を病んでいるのであって、
必要なのは自殺の手伝いではなく治療だということを?

辛いことがあってアルコールや、その他すさんだ生活によって
緩やかな自殺を試みているような、
しかし「自殺したい」と明確に意識していない人までを
「そこまでして死にたいなら、死なせてあげよう」と考えてしまうなら、
一定の生活態度が救命医療を受ける資格となる可能性だってあるということを?

父親を死なせてくれた医師がいたというエピソードは
英国の医療現場で違法な安楽死つまり殺人が行われているに他ならないことを?
(癌になった看護師が、医師を含む同僚も承知した上で致死薬を病院から持ち出して
 それで自殺したというエピソードも書かれています)

父親を死なせた医師が終わらせてくれたのは
父親自身の悲惨というよりも、その父親を見ている自分の耐え難さだったかもしれないことを?

「あんなになったら本人だって死にたかったはずなのに」という以上、
本人から死にたいという明確な意思表示を聞いたわけではなかったのであり、
自分に耐えがたかったのは父親自身の苦しみではなく、むしろ
「あんなに誇り高く自立の人だった父」の「こんなにも惨めな姿」を
外から見ている自分のつらさを、父親の内面に投影したに過ぎない可能性があることを?


The Timesのインタビューに興味深い箇所があります。

父親が死ぬのを手伝ってやらなかったことに今でも自責の念があると語った際にHumphrys氏は
「でも、どうしても自分にはできなかったということだと思います。
真剣にそれを考えると、その先どうなるかということが恐ろしかった」
と、罪に問われることが恐ろしかったという意味のことを付け加えるのですが、

インタビューアーがすかさず「それだけですか?」と突っ込み、
その抵抗感は、むしろ人間として超えがたい一線を感じたからでは、と示唆します。

それに対してHumphrys氏の答えが興味深く、
私はそこに自殺幇助問題の本質が1つ炙り出されているような気がします。

氏は「“手伝う”という言葉が重要なのだ」というのです。

自分は父親を「殺せばよかった」と悔いているのではない、
父が死にたがっていたことに疑いなどないのだから、
本人が望んでいた自殺を「手伝ってやればよかった」と悔いているのだ、
だから、そこには道徳的に間違ったことに対する禁忌の意識はなかった、と。

死にたがっていない人を殺すのは殺人で道徳的に悪だけれども
死にたがっている人を殺すのは自殺幇助であって
手伝いに過ぎないのだから道徳的に許される、というわけですね。

しかも、ここが合法化を主張する人に共通したマヤカシだと私はいつも思うのですが、
まず、「本人が死にたがっている」理由が、限られた余命と耐えがたい苦痛ですらなく
ただ「妻を亡くして失意の底にあるから」であっても
ラグビー選手なのに事故で寝たきりになった自分が許せない」であっても
要するに本人が主観的に「耐え難い」と感じる状態であればいいらしいし、

さらに実は、本人が主観的に耐え難いと感じている必要すらなく
「こんな悲惨な状態になってまで生きていたくはないだろう」と
周囲が想像するような状態であれば、いとも簡単にその想像が投影されて、
本人の自殺願望が勝手にでっちあげられてしまうのだから、

こんなのが合法的自殺幇助になったりしたら、
周囲の人間の主観的判断でもって、いくらでも殺人が免罪されてしまう。

それこそ「すべり坂」以外のなんでもないじゃないか、と思う。

どうして、こんな“ぐずぐず”の論理でこの人は
自分がOregonの尊厳死法と同じものを主張しているつもりになれるのだろう。

         ーーーーー

Ashley事件でもDiekema医師らの論文を皮切りに、
擁護論の主張にずっと感じていることなのですが、

本当はすこぶる頭が良いはずの人たちが
特定の問題を論じる時だけ都合よく
筋道を立ててものを考える能力をなくしてしまうかのように
摩訶不思議なほど論理性というものを欠いた文章を書き、説を説き、
その脈絡の乱れと、つじつまの合わない論理の隙間を
安っぽい情緒で埋めてお茶を濁す──。

載せられて、たぶらかされないように、
気をつけなければ。