重症児のコスメティックな手術(Wilfond論文) 3


知識がないため、どう考えていいのか分からないところもあって、
できれば専門家の方に教えていただきたいことが沢山あるし、また、ご意見もいただきたいのですが、

Wilfondが論文の冒頭で紹介し、論を展開する間も何度も引き合いに出すケースとは

10代の男児

2年前に、スケートボードで遊んでいる時の事故で脳と脊髄を損傷。
四肢麻痺、コミュニケーション不能、人工呼吸器が必要。

当初の治療で、頭蓋骨の2箇所が取り除かれ
その箇所は本人の体の他の部分の骨グラフトでふさがれたが、
その処置が結果的にうまくいかず、脳を保護するものが薄い皮膚一枚となったために
少年が再入院してきた。

そこで脳を守るべく、人造の頭骨でその部分を覆う手術が計画された。

両親はその手術を希望しており、担当医も同意したが
リスクが大きい割りに利益が定かでないと手術に反対する医師も。

少年は時に車椅子に座らせてもらう以外はベッドに寝ているのだから
転んで頭を打つ危険は皆無であり、それならば
手術の利益は外見をノーマルにするためだけ。
これはコスメティックな手術である、と。

判断が病院の倫理相談に持ち込まれ、
母親に「どうしてこんなコスメティックな手術を望むのですか」と理由を聞いたところ
「この手術をコスメティックだなんて!」と母親は腹を立てた。

Wilfondはここで医療の区別を2つ挙げます。

「強化のための医療と修復のための医療の区別」
豊胸手術は強化で、乳がん手術のあとの乳房再建は修復)

「強化と正常化の区別」
(おしゃれな先細の靴を履くために足の指を切るのは強化、
普通の靴を履けるように余分な6本目の指を切るのは正常化)

そして、こうした道徳的な区別があるから
息子の手術が「コスメティック」といわれた時に
豊胸やおしゃれのために足の指を落とすのと同一視されたと感じて、
母親が腹を立てたのは理解できる、と述べます。

しかし、それだけでは完全に母親の戸惑いを説明できないし、
まして、こういうケースでどうすればいいのか答えも出ない、として、
この事例から以下の3つの問いを導き出すのです。

1. 障害児のコスメティックな手術には健常児とは別の倫理基準を用いるべきか。
2. そういう手術はそもそも許されるべきか。
3. それは親が決めることを許されるべきか。

           ------

この段階で私は既に、分からないことだらけになってしまう。
出てくる疑問は、だいたい以下のようなもの。

・ このお母さんと同じで、私にも何故この手術が「コスメティック」なのかが分からない。著者が挙げている「強化と修復」、「強化と正常化」の区別のいずれにおいても、この手術は強化ではないからコスメティックではないし、さらに修復や正常化ですらなく、ただ「必要な治療」のように私には思える。Wilfondは意図的にか無意識的にか、この手術がなぜコスメティックでしかないのか、きちんと説明していないと思う。

・ 頭蓋骨の欠損をグラフトで塞いだがうまくいかなかったというのが、いま具体的にどういう状態になっていることなのか、私には知識がないため分からない。(不安定になったグラフトが脳を圧迫したり傷つけたり、この状態を放置することにこそリスクがあるような気がする。脳圧は? そういうことが今更問題にならないほどに脳が損傷されていたとすれば、グラフトで埋めたこと自体、もともとコスメティックでしかなかったのか?)

・ この手術のリスクとは具体的にどういうものか。(既に脳損傷のある子どもの脳に外科的に介入するリスクはそうではない子どもの場合より大きいのか? それとも一定期間寝たきりに近い本人の全身状態の問題? しかし主治医が手術に同意しているということは?)

・ 仮にベッドに寝たきりであっても、まったく体を(頭も)動かさないわけではないのだから、脳を保護しているのが頭皮一枚という状態に、大きなリスクがあるのではないか。それなのに「歩ける子どもが転んで頭を打つようなリスクがあるわけじゃない」というのは、寝たきりの子どもの生活状況にあまりにも想像力を欠いて、ただの物のように考えているからでは?

・ それとも、もしかしたら、この男児は本当は「重症の障害がある」という形容よりも「最小意識状態」または「永続的植物状態にある」という形容のほうが正確な状態なのか? 著者が男児の意識状態を「コミュニケーション不能」としか説明していないのは、事例の提示の方法として不誠実なのでは?

・ さらに言えば、手術に反対した医師らの「リスクが大きい割りに利益が定かでない」という判断は、「重症児だからコストがかかる割りに社会的利益が少ない」という意味だったのでは?

この後、Wilfondは前のエントリーで触れたHastings Centerのプロジェクトの倫理基準を紹介したうえで、
またこのケースに戻ってきます。

非常に問題を感じる部分なので、逐語訳で引いてみます。

もしも手術の利益が社会心理的なものに限られ、子ども本人がその利益を享受する認知能力を永遠に欠いているとしたら、その手術から利益を得るのは親だけだ、と主張する人もいるだろう。

例えば、スケートボードの事故にあった少年が脳を人造の頭骨で覆ってもらうことに、なんら身体上の利益がないと仮定してみよう。(念のため、ベッドから車椅子に移される時などに脳を保護するという、小さくはあるが、確かな身体上の利益はある。)むしろ、母親が手術を希望するのは、自分の息子が“正常な”外見であることが彼女にとって重要だから、という社会心理上の理由からであったと仮定してみよう。

そうすると、利するのは母親のみであって本人ではないから、この手術は適切ではないと考える人もいるだろう。そのリスクを負うのが息子であるという場合に、手術はどのように正当化できるのだろうか。

身体上の利益は実はあるのだと注釈をつけながら、
それを「ないと仮定してみよう」といい、
「手術の利益が社会心理的なものに限られている」場合の例として使うのは、
一体どういうイカサマなのだろう。

脳を保護するという利益が、どうして「小さい」と言えるのだろう。

また、母親が手術を希望する理由も、
脳をできるかぎり保護してやりたいからだと素直に考えるのが普通だろうに、
息子をノーマルに見せたいという親の虚栄心だと
何の根拠もなく勝手に仮定するとは……。

Wilfondは、ここから
コスメティックな手術では誰の社会心理的利益なのかを見分けることは難しい、と
さらにそちらへと話を進めていき、

その文脈においても、このケースについて次のように述べています。ここでも逐語訳にて。

もしも子どもの意識がないことだけを理由に手術を否定しないという立場に立つとしても、親が希望する理由を問題とするべきかどうかを決めなければならない。頭蓋骨の欠損したあの少年の母親になぜ人造骨の手術を望むのか理由を聞いてみるべきだろうか。もし折ったのが足だったら、その治療を親が望むことを誰も疑わない。こういう場合、臨床医は親の動機は、また立って自由に歩けるように、という正しいものだと考えるのだろう。仮に疑わしいことがあったとしても、折れた足を治すのはあまりにも頻繁に行われていることだから、親の動機など問題ではなくなっているのだろう。

しかしコスメティックな手術は足の骨折とは違う。……(中略)……頭蓋骨の欠損した少年のケースは、このような子どものコスメティックな手術の論議がいかに難しいかを示している。動機を話し合い、その決定にかかわる価値観の重要性について親を交えて協議することによって、予見や意見の不一致を克服することができる。親が希望する理由は、臨床医と親とがともに検討することが相互理解を助けるという理由でのみ、重要なのだ。

このように、Wilfondはこの少年のケースを一貫して
「母親の怪しげな動機によって要望されたコスメティックな手術」の話として扱い、

「医師がまず親の動機を聞いてあげれば、
その話し合いの過程が医師と親の信頼関係の構築には役に立つ。
親の動機がどういうものであろうと、それ以上の意味はないのだから
認知障害のある子どものコスメティックな手術は親に決めさせてあげよう」
と結論するのです。

しかし、障害のある子どものコスメティックな手術を通常の足の骨折治療に対比したいのなら
歩けないために拘縮を起こしている子どもの脚を
ただ世間を連れ歩く時にみっともないからという理由だけで
手術でまっすぐにしたい親を想定してみればいいのではないでしょうか。

もともとコスメティックな手術でもなく、親の動機も社会心理的なものではない、
極端に重篤なケースが、わざわざ持ち出されてきたのは、

ここにもまた
「重症の知的障害があれば利益など本人には分からず、
したがって医療における本人利益はありえない」という思い込みと、
「だから障害児は話が別」という暗黙の前提が最初からあるからで、

前のエントリーで指摘したように
口蓋裂以外は正常な子どもの手術に対置するのに、
わざわざトリソミー18の子どもの口蓋裂の手術を持ってくるのと同じく、

「どうせ、これほど重度な子どもでは
少々の身体的な利益が本人にあったとしても、
もともとの障害の重度さを考えれば相対的に利益はないに等しい」と
暗に主張するためなのではないでしょうか?

この論文を読んで、一番いや~な気分になるのは、
“Ashley療法”を正当化する父親やDiekema医師らの言葉に色濃く滲む
「どうせ何も分からない重症児」意識がここでもプンプン匂うこと。

「どうせ何も分からない重症児」だから最初から「話は別」で
赤ん坊扱い、モノ扱い、そして透明人間扱い。

あまりといえばあまりの患者不在、子ども不在。

それが果たしてWilfond医師個人の感覚なのか、
Ashley事件に関与したシアトル子ども病院の一部医師らの何らかの意図によるものなのか、
(著者に含まれてはいませんが、この論文にはDiekema医師も関与しています。)

それともシアトル子ども病院全体の文化なのか、
もしや米国の小児科医療や医療倫理全体にある程度見られる文化なのか、

もしかして、万が一にも、日本の医療界にも、領域によっては、ないわけではない意識なのか……?

私にはさっぱり見当もつかないので、
この論文を読んでもう1ヶ月以上になるのですが、
そこのところがずっと気になって、苦しい──。