重症児のコスメティックな手術(Wilfond論文) 2

Wilfond医師が「重症児へのコスメティックな手術も親の決定権で」というエントリーで取り上げた
シアトル子ども病院のWilfond医師の以下の論文について、
何度かに分けて考えてみたいことが沢山あるので、
上記リンクのエントリーをシリーズ1と考え、
このエントリーを2としました。

Cosmetic Surgery in Children with Cognitive Disabilities
Who benefits?
Who decides?

Hastings Center Report, January-February 2009

上記リンクのエントリーで書いたように、
この論文の要旨とは概ね以下のようなものです。

発達障害のある子どものコスメティックな手術については
子ども本人が社会心理的な利益を感じることができない上に
親と子どもの利益をくっきりと分かつことは困難なのだから、
親に決めさせてあげよう。

少なくとも、その手術を希望する親の動機を医師らが検討する過程で
親と医師の間の信頼関係が深まるメリットがあるのだから

この論文によると、最近
“Surgically Shaping Children(手術で子どもの外見を変える)”というHastings Center 研究プロジェクトで
リスクが小さく利益が長く続く口蓋裂の手術などは親が希望すれば可との、
合意ラインが出されたとのこと。

ただし、危険があり苦痛を伴う手術で
長期的に機能を十分維持できなかったり外見を正常に近づけることができない可能性がある場合は
子どもが意思決定のプロセスに参加できる年齢になるまで待つべきだというのが
プロジェクトの全員一致した意見だった、とも。

この見解を紹介した後、Wilfondは
しかし、このアプローチは将来的にも自己決定できない子どもには当てはまらない、と書き、
子どものコスメティックな手術の利益とリスクの比較検討は難しく、
したがって障害児の場合における親の決定権を制限するべきかどうかが問題となる、と述べます。

続いて彼は、
本人の利益なのか親の利益なのかの線引きが
障害児ではいかに難しいかということを述べていくのですが、

そこでWilfondが引っ張っている例の1つが
トリソミー18の1歳の子どもに親が口蓋裂の手術を希望した場合はどうか、という話。

この部分のWilfondの論理展開は大体、以下のような感じ。

それ以外に障害のない子どもの口蓋裂の手術なら
子どもへの社会心理的利益は明らかで手術のリスクも少ないし、
こちらとしても子ども自身が成長すればその利益を喜ぶことが確信できるので、
問題なくOKとなる。
もちろん、その手術で親にも利益があることは織り込み済みでもある。

一方、トリソミー18症候群の子どもは
重篤認知障害があり、腎臓と心臓にも問題がある、
身体上の奇形もあって十代まで生きることはまれである。

認知障害があるために、
口蓋裂の手術が約束する社会心理的利益を本人は感じることができない。
したがって手術で利益を受けるのは親のみだということになる。

しかし、Lainie Friedan Ross は
「密接な関係の家族における子どもの利益は
親の利益が増進されることによって間接的に増進される」と結論付けている。
このことからしても、家族全体の利益によって親が決定してもいいはずだ。

分からんなぁ……と、どうしても引っかかってならないのは、

プロジェクトの結論を紹介する直前にWilfondは
発達障害のある子どもへのコスメティックな手術には
障害のない子どもの場合とは違った倫理基準が用いられるべきだろうか」との
問いを自ら立てておきながら、

このプロジェクトのアプローチは自己決定できない子どものケースに当てはまらないと書いて
自分の問いへの答えがYESであると勝手に前提していること。

プロジェクトの結論は2段階に分かれていて、
リスクが小さく利益が続くものと、
リスクと苦痛が大きくて利益が保証されにくいもの。

これでは、その間にあるはずの
「リスクが小さいけど利益が保証されにくいもの」と
「リスクと苦痛が大きいけれども利益が続くもの」という2つが抜け落ちていて、
実は一番判断が難しいのはこちらじゃないのかと私は不思議なのですが、
とりあえず、ここに出てきているのは
「リスクと利益のバランスが最も良いものは可、
バランスが最も悪いものは子どもが成長するまで待ちましょう」という
両極端の2段階。

このうち、子どもの自己決定能力が関係してくるのは後者のみなのだから
もしもWilfondがいうように自己決定能力の有無を理由に知的障害児には当てはまらないとするなら
それは後者の「子どもの成長を待つべき」とされる種類の手術の話のはず。

両者とも自己決定のできない障害児には当てはまらないと自動的に決めることはできないはずなのに

Wilfondはここで
自己決定能力のなさを、プロジェクトの判断が障害児に当てはまらないことの根拠にしながら
実は利益を感じる能力の有無へと話を巧妙に摩り替えている。

これはちょうどDiekema医師が
2007年1月4日のBBCのインタビューで侵襲度の高さと尊厳の問題を突っ込まれて、
「でも、Ashleyは赤ちゃんと同じで何も分からないんですよ」
などと話を摩り替えたのとまったく同じ。

1月12日のLarry King Liveでも
「何が尊厳かということすらAshleyには分からない」。

2006年の論文では
「こういう人たちが、ただ背が低いということから蒙る害なんて考えられるだろうか」とも。

ここに見られるのは
「認知機能が低い人では
利益も害も本人がそれを感じない以上、
医療処置における本人の利益も害もありえない」という意識。

しかし、これは本当は、いまだかつて正面から問われたことのない命題で、
答えなどどこにも出されていないのではないでしょうか。

だからこそ、このような思い込みを敢て前提としたAshley事件が
あれほど大きな衝撃を与えたのだと私は思うのですが、

シアトル子ども病院では、少なくともAshleyケースが表に出て以降は
まるで既に確立されたスタンダードのように、これが前提されることが不思議です。

もっと広く様々な状況に適用されていくことを考えると、
こんなに恐ろしい前提はありません。

認知能力の低い人には、どんな医療処置からの本人利益も害もありえないとなれば、
軽い病気の治療だって無益だと主張できないことはないでしょう。


もう1つ、Wilfondは
口蓋裂以外に障害のない子どものケースに対比させるために
なぜ身体障害を伴わない知的障害児でもAshleyのような重症児でもなく
トリソミー18の子どもを例に引いてきたのか。

私はそこに、
「どうせ長くは生きない」のだし
「どうせ口蓋裂以外にも外見はノーマルではない」から
本人が利益を感じられないことの他にも
手術の本人利益は相対的に小さいのだと、
無言で主張しようとする、または読者の意識を誘導しようとする意図を感じてしまう。

それこそ、この論文の一切の議論のスタートに
「医療における意思決定の倫理スタンダードは障害児では話が別」という前提があり、
またその前提をさらに一般化していく意図が論文に含まれていることの
紛れもない証拠じゃないのだろうか。

なぜ「同じ」という基本から話をスタートできないのか。

「同じ」からスタートすれば
プロジェクトの出した合意ラインを基本にして、
障害のある子どもの場合には、より丁寧なセーフガードを、という話になるのではないでしょうか。

「話が別」からスタートしてしまうから
「親に決めさせてあげれば、少なくとも親と医師の信頼関係には役立つ」などと
小児科医でありながら、患者本人がまったく不在の結論を導き出してしまう。

なぜ「同じ」という基本からスタートできないのか。
なぜ「話が別」からのスタートになってしまうのか。
そこのところが不快でならない。


【Lainie Ross の講演や発言に関するエントリー】
親からの生体移植 Ross 講演 (これ、なかなか面白いです)
親による治療拒否(2つめのRoss講演)
テキサスの“無益なケア”法 Emilio Gonzales事件