「栄養はなくても茶は生活必需品」という視点

数日前に読んだ、
「現代の貧困 ――ワーキングプア/ホームレス/生活保護」(岩田正美 ちくま新書)で、
イギリスの貧困学者ピーター・タウンゼントの言葉が紹介されており、

それが貧困問題に関して書かれたものでありながら、
「人間の生活とか生は合理だけでは把握しきれないんじゃないかなぁ……」と
科学とテクノロジーによる簡単解決文化に対して私が漠然と感じている不満を
ずばっと言い表してくれているように思えたので。

貧困の境界を生存費用で線引きする思想に反論して
タウンゼントは

茶は、栄養的には無価値であるが、国によっては、経済学者たちによってすら、“生活必需品”として一般的に受け入れられている。このような国の多くの人々にとって茶を飲むことは、一生を通じての習慣であり、心理的には必要欠くべからざるものである。そして友達や近所の人々が訪問した時に、一杯の茶を供されるのを当然としている事実から見て、茶は社会的にも必要であることがわかる。
(P. 41)


この箇所を解説して岩田氏は

人間は生物学的な存在であると同時に、社会の中で社会のメンバーとして生きている。社会の中で生きていないような人間は現実には存在しない。だからカロリー計算だけで判断するような最低生活費は、頭の中だけで抽象的にこしらえた人間生活にしか当てはまらない。
(p.40)


私は重い障害のある娘の「食」の問題に
「食」はカロリーと栄養だけではない、はるかに、それ以上のものであり、
障害のある人の「食」にどのような姿勢で向かい合うかということは
尊厳の問題そのものなのだと、ずっとこだわってきたので、
この部分が特に胸に響くのかもしれません。

Ashleyが元気な時には口から食べられる状態だったように思えるのに
父親の“合理的な”判断で簡単に胃ろうにされてしまって、
“Ashley療法”論争の際には、
今度はその「経管栄養」だという事実が一転して
障害の重篤さの証明のように使われてしまったことにも
ずっと疑問を抱いています。
(去年、ピーター・シンガーがAshleyケースを論じた際にも
「飲み込みすらできない」ことを重症度の根拠に挙げていました。)

実はここしばらく複数のエントリーで考えているWilfond医師の論文でも
障害のある子どもの胃ろうの決断を取り上げているのですが、
彼の胃ろうに対する捉え方が私にはまさに仰天動地だったので、
それについては、また別エントリーで考えたいと思っています。

しかし、このタウンゼントの茶の例えは
ただ「食」や「貧困」の問題にとどまらず、
なべて今の社会が科学とテクノロジーを中心にした合理でもって
人間を短絡的に割り切ろうとしていることへの
アンチテーゼでもありうるのでは……と私には思えて。

例えばトランスヒューマニストらが描いてみせる
人間がみんな頭がよくなったら、世界はもっとベターになって、みんなハッピー」という理想郷
”知能”という”カロリー”だけで人間を考え”茶”の存在をまったく無視して
「頭の中で抽象的にこしらえた」理想郷なんじゃないのかなぁ……。

それに、この前あった「障害児教育予算は優秀児の教育にまわせ」という発想なんかも、
”知能”という”カロリー”を上げることだけしか見えてなくて
”茶”が完全に忘れ去られているんだけれど、
実は教育の本質は、むしろ”茶”にあるんじゃないのかなぁ……。


ついでに、もう1つ、
この本の中で「げっ」と思った箇所を。

もともと日本は、税や社会保障による所得再分配効果が小さい国だといわれている。OECDが2005年に公表した国際比較で日本は、10等分された所得階層のうち下から三つの層が再分配後に得た所得のシェアで、先進国19ヵ国中、下から2番目である。つまり日本は、所得再分配によって貧困が是正されることが少ないことで定評のある国なのだ。
(p.189)

知らなかった……。