「会議で退屈したからAshleyは赤ん坊と同じ」とDiekema医師

去年新たに見つけた米国医師会新聞によるDiekema医師のインタビュー記事について、
会員でなくても読める冒頭の部分を元に
D医師「施設内審査委員会が承認した」と大ボラのエントリーで書きました。

そのウソが重大であるだけに、この記事の内容はたいそう気にかかって
全文を読む方策がないものかと、この1年近く、いろんな人を煩わせてきたのですが、
(ご協力くださった方々、ありがとうございました)
なにしろ米国医師会会員向けの新聞なので難しく、ほぼ諦めていました。

それが先日ひょっこり全文公開されているのに気付きました。

Physician-ethicist explains “Ashley treatment” decision
The chair of the IRB that approved the controversial treatment of a child with severe disabilities offers insight into the dilemma.
By Kevin B. O’Reilly, AMNews, March 12, 2007


やっとのことで全文を読んでみれば
さすがにD医師本人はIRBで検討したなどとインタビューで語ってはいませんが、
(もちろん上記エントリーで指摘した大ボラ疑惑は依然として変わりません)

ちょうど当初の論争が静かになってきた辺りで行われた
この医師向け新聞での、決して長くはないインタビューには
改めて不快感と憤りがつのりました。

特に3点について以下に。

1.Ashleyの精神年齢を生後3ヶ月とする根拠があまりにもひどい

2004年5月の倫理委員会の冒頭、
父親がパワーポイントを使ってプレゼンをした際に
Ashley自身も部屋にいたというのですが、
そのことが倫理委の決定にどういう影響を及ぼしたかと問われて、

D医師は「生後3ヶ月だと聞いたことが、直接本人を見て確かめられた」と答えています。

しかし、それを説明する彼の言葉は

Ashleyは落ち着かなくなって、車椅子でごそごそし始めるんです。
退屈そうで、面白いこともないのにそんなところにいたくないという感じ。
ちょうど赤ちゃんがむずかるのとまったく同じでした。

病院の会議室に白衣を来た人を沢山含めて40人ばかりの大人が勢ぞろいし、
しかも会議の空気はSalonの記事で医師らが証言していたように
表現されることのない批判や反発を含んで非常に緊迫していました。

父親はそんな空気の中、次々にデータを並べて解説・力説していた──。

知的障害がなかったとしても、
そんな大人たちの話が6歳の子どもに理解できるはずがないし、退屈しないわけがない。

もしかしたら、Ashleyは退屈したのですらなく
その場の異様な緊張感に居心地が悪かったのかもしれない。
それならば、Ashleyが会議の場で落ち着きがなかったのは
逆に認知能力の高さを物語っているのかもしれない。

それなのに、そんな異様な雰囲気の会議の場でごそごそ落ち着かなくなったことが
どうして生後3ヶ月程度の知能しか持たない証明になるのか。

自分で歩ける2歳、3歳だったら(子どもによっては6歳だって)
退屈して歩き回るかもしれないし、言葉でそれを訴えるかもしれない。

Ashleyは自分で歩けないし言葉がないから
退屈を表現する術が限られていて車椅子でごそごそするしかできない。

その姿を「赤ん坊と同じだ」と考えるのは
ただ障害のある身体しか見ていないからでしょう。
身障の状態をそのままその人の認知能力に置き換えて、
「寝たきりでものを言えない人は何も分からない」と決め付けるのと何も違わない。

障害児をそういう目でしか見ることができないというのは
それは一体、どういう小児科医なのか?


2.「自然に成長する権利はそう望む人にだけ大切」

「障害の有無に関らず人には自然に成長する本来の権利があるのでは?」という質問に
D医師はこのように短く答えます。

これを医療倫理の判断と考えると
たいそう恐ろしい発言なのでは──?

重症の知的障害がこの根拠になっていることを考えれば、
「生きる権利はそう望む人にだけ大切」へと敷衍していくことだって可能なのでは――?

だからこそ、この問答に続いて以下の質問が出てきたのではないでしょうか。


3.「Ashleyにとって生きているということは重要なんですか」という質問。

これが医師会会員向けの新聞で
インタビューしているのは新聞スタッフの医療ライターだというのだから
質問そのものに仰天してしまいますが、

D医師の答えは、まず
「Ashleyにとって大事なのは、安楽と愛と、ぽんぽんがいっぱいになること」と
わざわざtummy(おなか、ぽんぽん)という赤ちゃん言葉を使って答えています。

親が今回やったことも、それを娘に生涯補償してやろうという意図だ、と。

その後でD医師は
「Ashleyは明らかに家族の中では大切なのです」と
Within her family という表現を使います。

この文脈における質問の言外の意図と、D医師の答えの言外の響きを合わせると、

「そんな自分の成長すら願えないような子に、じゃぁ、生きている価値があるんですか?」
「そりゃ外の世の中一般には理解できないけど、家族の中でだけは大事な子どもなんだからさ」
と聞こえます。

それに続いて
「Ashleyはあなたや私のようには自分のことを考えられないけど
だからといって彼女が生きていることから喜びや楽しみを感じないということではありません」
と語り、インタビューが終わっているのですが、

確かDiekema医師は一貫して
「自分が尊厳を大事にされているかどうかなんてAshleyには分からない」と主張し
それによって重症児への侵襲を正当化しています。

しかし、生きていることに喜びや楽しみを感じることができる能力は、
そのまま悲しみや怒りを感じる能力でもあるのではないでしょうか。

生きている喜びや楽しみを感じる能力がある人は、
自分の尊厳が大事にされているかどうかを感じる能力も
あるのではないのでしょうか?