「生殖の慈悲」と「親の決定権」THニストバージョン

Anne Cowin という女性トランスヒューマニストが2006年に自分のブログで
Peter Singerやトランスヒューマニストらの優生思想を批判する文章を書いています。

その要旨の前半はざっと以下のような感じ。

トランスヒューマニストの哲学の中には
あらゆる可能性を持つ子どもたちの中から
親は最善の人生を送れる子どもを選択する義務がある、とする
生殖の慈悲(procreative beneficence)原則があるが、

私はそれは近視眼的な考え方であり、
科学の進歩と共に排除できる特性が増えていくにつれて、
現存する社会で能力を最大に発揮できる人間以外は存在してはならないという
偏狭な価値観へと向かっていくしかなく、それはナチの優生思想への道である。

生殖の慈悲原則は母子に命の危険があると明らかな場合に限るべきだと思う。

Peter Singer型の倫理学がトランスヒューマニストの言説にはよく登場する。
大型類人猿の人格を尊重するというSingerの考えは支持できるが
親は生まれてくる子どもに“正常な”能力と性質を保障する義務があるという
生殖の慈悲原則に基づくSinger説は的が外れていると思う。

自分がどうありたいかを自由に選べることがTHニズムの理想であるならば、
そこでは障害も含めた多様性を尊重したうえで
個人の選択の自由が保障されなければならない。

そこでCowinは
James Hughesの著書“Citizen Cybogue”の一説を引用しているのですが、
ここでHughesが提示している例が、いかにもトランスヒューマニスト

例えば、
ある人がテクノロジーによってエラとかヒレをもつ身体になって、
水中で暮らすことを自己選択し、
自分の子どもにも同じ暮らしをさせたいと望んだ場合、
それは一定の能力を子どもから奪う代わりに
別の能力を子どもに与えることになるのだけれども、
果たしてこれは虐待なのか、それとも強化なのか?

(ここにもまた、人間の能力の差し引き計算でしか
物事を捉えることのできないTHニストの価値観の浅薄さ・偏狭さが顕著ですが)

CowinはTHニストらしく、
Hughesの例を新たな未知の可能性と捉え、
テクノロジーがもたらすのが未知の可能性だからといって
その可能性を否定することはやめよう、という考え方をします。

だからこそ、Hughesらが将来の可能性に対して自由であろうとする姿勢のまま
誰かが今、自分には想像できない状態にあるからといって、
その状態を否定的に捉えることもよそう、と
先の「生殖の慈悲原則批判」に戻るのです。

親を(教育した上で)信頼して、
(能力優先とか障害排除などの一定の価値基準をしくのではなく)
親の完全に自由な選択権に任せよう、というのが、このエッセイでの Cowin の結論。

Progressive Dialogue and Procreative Freedom
By Anne Cowin
EXISTENCE IS WONDERFUL, November 4, 2006


しかし、2006年11月にこう書いたCowinが2ヵ月の“Ashley療法”論争では、
わっと飛びついて擁護したTHたちの中でただ1人、“Ashley療法”を厳しく批判しているのは興味深い事実。

Cowinの“Ashley療法”批判の論点は4つで、

1. 無抵抗な人の身体に過激な処置が行われたことが遺憾。「ただやってしまえるから」というだけで特定な人に何かが行われないよう特段の配慮が必要。

2. 親が愛情から決定したといっても、それ自体は決定内容を正当化するものではなく、内容・理由・方法がそれぞれ精査されなければならない。

3. 障害のある人とない人とで、結果的な処遇が同じである必要はないが、判断に適用される倫理基準は一定であるべき。

4. 生後3ヶ月相当とされる年齢比喩には根拠がなく、このような比喩を用いて議論することは危うい。

そして、彼女は結論として

自分で主張することも身を守ることも難しい人々が体験してきた
力のアンバランスは非常にリアルなものであり、
歩くことも話すことも自分で食事をすることも出来ない人たちに
Ashley療法が適用される可能性については真剣に考える必要がある。

私はCowinの書いた“Ashley療法”批判は
これまでに出た批判の中で最も筋の通った鋭いものだと考えていますが、

親と子の間にも「力のアンバランス」が非常にリアルに存在するし、
親の力の前に子どもは「無抵抗な人」に等しいことを思えば、


それを障害児については否定しているものの
Cowinの「親を教育し信頼して親の選択に全面的に任せる」という考え方も
やはり現実から遊離した楽観論に過ぎると思う。

科学とテクノロジー
親が子どもに「してやれる」ことの選択肢がどんどん多様になる時代。

親の愛情や親の考える子どもの最善の利益が必ずしも
本当の子どもの利益を守るものであるとは限らない現実をしっかり踏まえて
親とは独立した1人の人間としての子どもの尊厳や権利が守られるよう
社会がセーフガードをきちんと設けることが必要なのでは?