認知障害カンファレンス巡り論評シリーズがスタート:初回はSinger批判

9月にニューヨークで認知障害関連の大きなカンファレンスが開かれました。
テーマは「認知障害:道徳哲学へのチャレンジ」


Ashley論文を掲載したジャーナルで
Gunther & Diekema論文に批判的な論説を書いた Jeffrey Brosco や
同事件に関して「重症児には動物ほどの尊厳も無用」と過激な擁護論を展開したPeter Singer、
07年5月のUWのAshley事件に関するシンポに登場したAnita Silvers

また、これまで当ブログで紹介した人としては
「選択的中絶の権利は子育ての負担を背負う女性にある」と主張する論文を
Hasatings Center Reportに発表したHilde Lindermann など、

多彩なスピーカーが25人も勢ぞろい。
認知症を論じたプレゼンもあります。)

1月ほど前にこのカンファについて知ってから
とりあえず抄録だけは読み通してから紹介したいと
常にコピーを持ち歩いているのですが、
なかなか全部を読み通せずにいたところ

生命倫理・障害学関連ブログ What Sorts of People が
14日に、なんと、このカンファの内容について議論するシリーズ 
Thinking in Actionを立ち上げてくれました。

今後、火曜・金曜に新しいエントリーをアップしながら
数ヶ月続けるとのこと。

14日の初回はカナダAlberta大学の哲学の教授 Robert A. Wilson氏が
カンファでのPeter Singer のプレゼンの一部を取り上げて批判しています。

Wilson氏の14日のポスト
Peter Singer on Parental Choice, Disability, and Ashley X
(親の選択、障害、Ashley Xに関するPeter Singer の発言)
の中にカンファでのSinger講演の一部のクリップがありますが、

ここでSingerが主張していることは概ね以下のようなあたりで、
これまで当ブログで紹介してきた内容とあまり変わりません。

・ 子どもの障害を巡る親の考えには分断があり、親によって思いは様々なのだから、親の選択権が尊重されるべきである。

・ 我々が動物に尊厳を云々しないように重症の障害児にも尊厳を考えるのは正しくない。それよりも障害児の最善の利益は何かということを問題にすべきである。(その例としてSingerが挙げたのがAshley のケース。)

Wilson氏の批判も、だいたい当ブログが指摘してきた点と同じで

・ 「重い精神遅滞」を云々するプレゼンにおいて、Singerはダウン症候群から話を起こし、次いで脳性まひに触れながら最後にAshley問題を取り上げているが、この中で「重い精神遅滞」を伴う障害は最後のAshleyのみである。それぞれの障害の形態や程度の多様性を自分の話の論点にあわせて使い分けることで巧妙に話を進めている。

・ Singerが主張していることは基本的には「親の意見や望みには耳を傾け尊重しなければならない」ということであり、障害のない子どもの親と同じことに過ぎないように聞こえてしまうが、ここで論じられているのは障害児の身体を侵襲することや命を切り捨てることの是非である。そのギャップが見えないまま話が飛躍してしまうことの危うさ。

・ 障害のある子どもの親が自分の子どもと同じ障害が世の中に広まることを願って、敢えて障害のある子どもを産もうと働きかけることも、Singerは親の選択権として認めている。これは聾の親が聾の子どもを産みたいと望むケースにまで繋がるという意識がSingerにあるのか。本当にSingerはそこまで親の決定権が強いものだと主張するつもりなのか。

・ SingerはいともたやすくAshleyケースを取り上げて本人利益にかなうとして承認し、重症児が尊厳に値しない存在であることと、親の選択権が承認されるべきであることの証左として解説している。病院の倫理委がプロトコルを踏み外し、ほとんど医学的根拠のない、すべての子どもの人権である成長する権利を侵害した重大なケースであるという認識が欠けている。

このエントリーには
上記カンファの主催者の1人で
障害のある子どもの親でもあるEva Kittay氏からコメントが入っており、
さらに2点を指摘しています。

正常な認知機能レベルを下回る人はみんな
”生きていることそのものが疑われるに十分なだけ重度の”認知障害があるという
暗黙の見解がSingerの考えには存在している。

Singerに限らず、
現実の経験的な問題から離れた哲学の世界に隔絶して
知識と理論だけで障害者の問題を考えている人たちは
現実の障害に関して呆れるほど無知である。

全く同感。


このカンファについては
Singerをスピーカーに招いたこと自体への批判が出ていたのですが、

Kittay氏は
無知だからこそ障害者が実際に暮らしている場に来て欲しかった、
そして学んで欲しかったのだと述べています。

この「知識と理念だけで実像についてあまりにも無知」だという点については
私も重症児の親として、いつも同じもどかしさを感じている点です。

「Ashleyのような重症児」について議論するのであれば、
実際にAshleyのような重症児がいる施設や家庭を訪ねて、
彼らが本当はどういう子どもたちなのか
その息遣いや顔や目の表情に触れ、
その声のトーンに耳を済ませてほしい。

彼らを最も身近にケアしている人たちから
「彼らにできること」「好きなもの」「嫌いなもの」を聞かせてもらって欲しい。

そして、できることなら、しばらく一緒に過ごしてみてほしい。

彼らの体臭を嗅ぎ、肌に触れてから、
重症児について論じるということをして欲しい。

「Ashleyのような重症児」は
日本でも多くの人が混同して論じたような「植物状態」でもなければ
Singerが弄んでいるような「ただの観念」でもないのだから。

「重症児・者」を論じる場合には
自分が具体的にどういう種類と程度の障害像の人のことを論じているのかを明確にし、
そこからブレることなく議論を進めてもらいたい。


【当ブログのSinger関連エントリー


【その後 tu_ta9さんのご指摘を受けて、誤解をさけるべく以下を追加】