英国式「オレゴン式・死に方」の勧め

英国のジャーナリストKatharine Whitehorn
米国で唯一医師による自殺幇助を法律で認めているOregon州に出かけて取材し、
英国のリベラル紙the Guardian で論評しています。

世界で初めて尊厳死を認めたオランダでは
死が差し迫っていることという条件も付していないけれど、
現在、オランダほどリベラルではない条件付き尊厳死を認めているのがベルギー、スイス。

(2010年2月追記:その後2009年米国ワシントン州モンタナ州ルクセンブルクが合法化)

しかし、Whitehornは英米では無理だと考えていたと言います。
その理由がちょっと可笑しくて
まず英国人は「仕事ができないから」。

具体的には
「無力な高齢女性に、ウンコまみれのシーツすら、ろくに替えてあげることができない国で
その女性が本当に自己選択によって死ねるなんて保障できるものだろうか?」と。

そして米国人は「商売に走りすぎるから」。

そう考えていたWhitehornは米国Oregon州の尊厳死法が気になって
ついに実際に出かけて取材してみた、というのです。

取材を終えた彼女の結論を先に抜いておくと、

The Oregon way of dealing with death is principled, comforting and a model of how things might be, once we face up to rethinking the end of life as we have rethought the beginning.

Oregon式・死への対処法は原理原則によって整然と行われ、心に救いをもたらすものである。もしも我々が、生命の始まりを再検討してきたように、生命の終わりについても正面から考え直してみようとするのならば、おそらく1つのあるべき姿のモデルだろう。

「生命の始まりへの再検討」は完了形で表現されており、
ヒト受精・胚法の改正などを通じて英国に定着しつつあると思われる
「障害児は産まれないように」という動きは
この人にとっては既定路線なのだなぁ……と、
私はそちらの方が目に付いて

やっぱり
「死の自己決定権」や「無益な治療」論は「新優生思想」と対になっているなぁ……と
前から感じていたことをこのコメントに再確認した気がしました。

How to die ‘the Oregon way’
The Guardian, October 13, 2008


Oregonの尊厳死法についてはずっと気にかかっていますが、
だからといって直接自分で詳しく調べてみるほど入れ込めないので、
この長文の記事から、Oregonの自殺幇助の詳細を以下に拾っておくと、


・ the Death With Dignity Act の成立は1994年、施行されたのは1997年。

・ 自殺幇助の要望は1回行われた後に2週間を置いて、もう1度、計2回行われなければならない。2名の証人の署名が必要で、そのうち1人だけは親族でよい。(子どもが結託して親を死なせるのはこれで防げる、とWhitehorn。)

・ 医師は患者の死が迫っていること(6ヶ月以内?)と、患者の精神状態が健全であることを確認しなければならない。(精神状態に懸念がある場合には精神科医への紹介が義務付けられているが、それが行われず鬱病患者に自殺幇助が行われていた可能性が報道されたばかり。)

・ 医師による自殺幇助(PAS)が受けられるのはOregon州の住民のみ。(死ぬ目的でOregonにやってくる人を排除するセーフガードだとWhitehorn。)

・ 97年の同法施行からこちら、実際に“Oregon方式”で死んだ人は“驚くほど少なく”431人(死者1000人に1人)。致死薬を要求した人のうち、実際にその薬で死んだ人は10人に1人。

・ もっとも、実際に行われている自殺幇助はPASのみではなく、the Hemlock Societyという団体は周囲へのショックの少ない餓死による自殺をサポートしている。

・ 一方、Oregonはホスピスの充実度で全米第2位を誇る。ただし在宅での緩和ケア中心なので病院でのホスピスでは順位が低い。Oregonの調査では、PASの合法化以降、前より痛みの除去に積極的になったという医師が多い。PASを求める人の86%はホスピス患者で、当初はPASに反対姿勢だったホスピス側も現在はほぼ受け入れている。自らの信条によりPASを否定するホスピス看護師は、担当を代わることができる。家族がケアできない高齢者には、他の家族がケアを引き受ける、児童福祉における養親のような制度もある。(このホスピス関連の部分にはWhitehornの取材や解釈が非常に甘いか、または恣意的なのでは、という感じも。)

尊厳死法の設立に尽力した尊厳死推進団体は Compassion and Choice。(全米に類似法を作ることを目指して活動しており、現在はWashington州で尊厳死法設立に向けた動きを支援中。)

・ PASを選ぶ患者の理由は、意外なことに「取り除くことの出来ない苦痛」よりも、男性の場合は「正常な身体機能が失われて他者の世話にならなければならないこと」、女性の場合は「喜びと満足を与えてくれるものが自分の人生から奪われてしまったことの絶望感」であることが多い。

・ 法律が出来た当初、貧困層や意思決定の難しい人に死への圧力がかかると批判されたが、実際には反対の現象が起こっており、PASを選ぶ人には高学歴で意思決定能力が高く、医療保険も充分で医師との関係も良好な患者が多い。(貧困層には医師と良好な関係を築くだけの医療費がない、避けがたい死という条件によりエイズ、MSや認知症がカウント外になるためか、とWhitehornは書いています。)

   ---        ---

読んで、ものすごく気にかかったのは
男性の場合「正常な身体機能が失われて誰かの介護を受ける状態になること」が
PASを求める動機として多い、という部分。

この動機そのものが
「死が迫っていることという条件がエイズやMS、認知症患者を対象外とするセーフガード」だとする
Whitehornの楽観論を否定していると思うのですが、

当ブログで何度も取り上げてきたように、
男性中心社会にありがちな競争原理、能力至上の価値観の裏返しとして、
生産性を失うことや「正常な身体機能」を失うことが人間としての誇りの喪失に直結し、
その主観がそのまま他者の状態への客観的な価値判断にずれ込んでいくと
健康な人たちが勝手に「あんな状態になってまで生きているのは本人にも不幸」と決め付け、
さらに「死んだ方が本人の幸せ」だと
脳死植物状態の境目も、植物状態と重度障害の境目もぐずぐずにして
「無益な治療」論の拡大・浸透へと繋がるのではないでしょうか。

それから、もう1つ、
記事冒頭にWhitehorn自身が提起していた疑問は
PASを巡る諸条件が整えられたとしても、
依然、それ以前の問いとして残っているのではないか、ということ。

障害者や高齢者に充分なケアを提供することができない社会が、
どうして彼らに真の意味での「死の自己選択」を担保することができるのだろう──?