4歳の脳性まひ児殺した母親に終身刑(英)

英国で去年11月に脳性まひの4歳の娘Naomiをフロで溺死させた母親Joanne Hill(32)に
終身刑(最低15年)が言い渡されました。

以下の2つの記事には
殺害動機は装具を使って歩く脳性まひの娘を恥じたためだとされているのですが、

事件の詳細を読んでみると、
むしろ母親自身の障害が大きな要因であった事件のように思われてきます。


Mother murdered disabled daughter
BBC, September 23, 2008
(母親の写真と父親の会見ビデオあり)


母親のJoanneは広告代理店の役員ですが
記事からはアルコール依存があった模様で、
結婚生活にも問題を抱えていたようです。

もともと17歳の時に不安と反復思考を訴えて児童精神科の診察を受けており、
2000年には2回の自殺未遂、
Naomiの出産後には重症のうつ病にも。

上記BBCの写真を見ても、
表情すら失ったような絶望的な暗さは痛ましい。

(弁護側は判断能力の喪失を訴えたようですが、
 判事の判決理由は「どんな言い訳もありえない」というもので
 この辺りには、ちょっと政治的な解釈もありうるのかも?)

一方、Naomiちゃんの脳性まひそのものはそれほど重度のものではなく、
父親の会見によると、時間がかかるだけで4歳児にできることは何でもできたといいます。
病気として捉えると Naomi suffered from cerebral palsy(脳性まひを患う、脳性まひに苦しんでいる)
という表現が使われますが、裁判で使われたこの表現について父親は
「事実ではない。Naomiは苦しんでなどいなかった」と否定しており、

私もこの点には共感を覚えます。
それが本人にとっての常態である幼い脳性まひ児にとっては
自分が不自由であることの認識そのものが少なくともまだないし、
(知的障害がなければ、4歳ならあるかもしれないけど)
障害があるというだけでその子どもが苦しんでいるとか不幸だと決め付ける表現には
事実を捻じ曲げる危険性があると思います。

(こうした表現はAshley事件でも多用され、
Ashleyの状態が過剰に悲劇的なものとイメージされることに繋がりました)

事件の直前にJoanneが会社の同僚と不倫を重ねていることや
父親の会見の内容やトーンからも夫婦関係はすでに冷めていたのだろうと推測されますが
彼によれば水が怖くて泳げないJoanneにとって
水の中に沈められることが最大の恐怖だったとのこと。

「私のプリンセスに彼女がしたことは邪悪だ」と非難した父親は
そのエピソードを邪悪さの裏づけとして語ったのだろうけれど、
それは娘にそれほどの憎しみを抱いていたとか、
最も酷い殺し方を敢えて選んだということよりも、むしろ、
彼女をずっと苦しめてきた自分や自分の人生に対する不安や恐怖の象徴として
水の中に沈められるという具体的な恐怖がリアルに存在し続けていたということではないんだろうか。

結婚生活の破綻やアルコール依存、子育てと恐らくは仕事との両立にも苦しみつつ、
彼女は自分にはもっと酷いことが起こるという恐怖にさいなまれていたと思うし、
自棄的にアルコールと情事に溺れれば溺れるほど
「水の中に沈められる自分」という破滅のイメージに
実は自分自身が追い詰められていたんじゃないんだろうか。

「娘の脳性まひを恥じたから」母親が殺した事件として
メディアも世間も単純に捉えてしまいそうですが、
もちろん子どもの障害が追加のストレスになった面はあるにしても。
この事件の本質は子どもの障害ではなく、むしろ母親の障害のほうであり、
仮にNaomiが健常な子どもであっても、この人は殺したのかもしれないという気がする。

脳性まひの支援団体Scopeの関係者が次のように言っています。

どれほど多くの障害のある親が
子育てをする時に必要な支援を得ることができていないか、
いかに社会が障害に否定的な目を向け、恥じる気持ちとスティグマを作り出しているか。
この事件が提示しているのは、そうした、もっと広い問題です。

悲しいことに、このケースでは、それが証明されて
こうした要因の組み合わせが死を招いてしまいました。

さまざまな要因の組み合わせ──。
この言葉がとても印象に残った。


親は、特に母親は
世間から母性信仰をインプットされて、程度の差こそあれ、それを内在化させてしまっているので
子育てが自分にとって苦しくなればなるほど
自分が子育てに苦しんでいることを自分で認めることが難しくなる、
まして自分から助けを求めることが出来ず、
むしろ「苦しい、逃げ出したい」と感じる自分を責める気持ちから
逆に明るく強い母をさらに自分に強いて、頑張り続けていたりもする。

健康な母親であっても、そうなのだから、
もともと精神的に、肉体的に弱いところのある母親にとっては
そこに子どもへの罪悪感や自分への否定的な目線が追加されて、
自分から支援を求めて声を上げることなど、ほとんど不可能なはず。

いかに愛情があっても、子育ては時に苦しい、限界を超えて苦しいこともある。
どんなに深い愛情があっても、生身の人間である親に耐えられることには限界がある。

それを個々の親の愛情や努力とは無関係な当たり前の事実として受け止めて、
そういう世の中の共通認識を作っていくべきなんじゃないだろうか。

子どもの障害を親の「献身」や「美しい親の愛」とセットで語ることも、
もう止めてもらえないだろうか。

そして、心の奥深いところに悲鳴を押し殺したまま
頑張り続けるしかないところに追い詰められてしまった親たちを
支援する側が見つけ出して、迎えにいってあげてもらえないだろうか。

よくここまで頑張ってきたね、
もう、これからは1人で背負って頑張らなくてもいいんだよ、と。

もちろん、その時には本当に1人でがんばり続けなくてもいいだけの
本当の「支援」を用意しておいてほしい。

名前だけ「支援」のフリをした「相談」でも「指導」でも「教育」でもなくて。



重症障害を持つ娘の子育てを振り返って
支援について考えてみたエントリーです。