英国のHill事件エントリーに補足

前回のエントリーにKazu’SさんからTBをいただきました。
どうやら前のエントリーがJoanne Hillの娘の殺害行為を擁護しているように読めるようなので、
無用な誤解を招かないよう、いくつか補足を。

記事を書くときに無意識にこれまでの一連の流れの中で書いてしまって、
読んでくださる方にとっては1本ごとなのだということを
つい失念してしまうのがいけないのだろうと思うのですが、

このブログはAshley事件を契機に
欧米で生命倫理が危うい方向に向かっているのではないかという疑問を感じ、
何も知らないところから興味の赴くままの読みかじりをアップしているものです。

読みかじりとはいえ、それなりに続けていると見えてくるものはあって、

英米カナダで障害のある子どもを親が殺す事件が相次いでおり、
メディアと世論に、その行為を擁護するトーンが感じられることがあります。
中には殺した親自身が「殺されることが娘の利益だった」と主張するようなケースもあります。
(詳細は「切り捨てられていく障害児・者」の書庫に。)

また、その一方に、障害児が産まれないようにしようとする新しい優生思想の動きや
重い知的・認知障害を負った人には治療・栄養を拒んで死なせようとする動きもあります。
(「新・優生思想」、「無益な治療」、「尊厳死」の書庫に。)

そうした欧米の動向を懸念しつつニュースを追いかけて来た者として、
私はHillに対する終身刑の判決そのものは、とりあえず歓迎したいと感じました。

重症障害を負った人に治療を拒む「無益な治療」論においても、
Ashleyのような知的障害者への不妊手術においても
医療の現場で作られていく既成事実に
からくも歯止めとなっているのが唯一司法である現状を思えば、
親の障害にも「言い訳はありえない」とした判決理由にも
そうした背景への司法からの意思表示という意味合いもあるのかもしれない、とも考えました。

しかしAshley事件を始め多くの事件報道がそうであるように
細かい事実関係を丁寧に抑えてみたら
事件の思いがけない実相が見えてくることがあります。

このHillの事件でも、
「子どもに障害があったから殺した」という単純な理解では事件の本質を見落とすのではないか、
この事件には、また別の角度から丁寧に考えなければならないことがあるのではないか、
むしろ、これは障害のある親の子育て支援の問題なのではないか、ということを、
なによりも事件のまとめとしては書きたいと考えました。

その上で、いくつか気になる点に触れました。

障害のある子どもの命や身体の軽視を最近の欧米の事件に感じますが、
その際に子どもの状態が障害ではなく重病であるとの誤解が目に付きます。
障害それ自体が苦痛を伴っているような誤解を招く表現や
実際よりも悲惨な状態にあるかのように表現されてしまうと、
障害のある子どもを巡る事件では本質が捻じ曲げられてしまうので
父親が指摘しているsuffer fromという表現は当たらないという点には同意であること。

しかし、その一方で、夫婦関係が上手くいっていなかったと思われる父親が描く
「愛情のない母親が残虐な殺し方をした」という図もまた
事実とは言いきれないのではないか、と思うこと。

事件について考えるためには、
そうしたことの一つ一つを丁寧に考えていかなければ
大事なものを見落としたまま分かったつもりになってしまうのではないかと思うからです。

そこまでがHill事件の簡単なまとめとして書いた部分。
それ以上の興味がおありの方はリンクから直接記事を当たってくださると思うので。

Hillの事件のニュースを読めば当然のこととして福岡の事件との連想が働きますが、
福岡の事件については、事実関係がまだ断片的にしか出てきていないし
どう考えたらいいのか私自身は未だに整理しきれていません。
だから直接そちらの事件に触れることはしませんでした。

ただ福岡の事件を知った時に、すぐに頭に浮かんだのは
知的障害者の施設はある、身体障害者の施設もある、重心施設もある、
だけど発達障害の子どもの親のレスパイトには、どういう受け皿があるのだろう?」
ということでした。
不勉強で答えは分からないのですが、今のところ調べていません。
地域による違いもあると思いますが、おそらく十分整備されていないだろうと、
この事件で初めて自分の直接体験ではない発達障害の子どもの親御さんたちの状況に
具体的な想像が及んだということです。

そこから考えは、日ごろ考えている介護者(育児)支援の問題に繋がりました。

「なぜ母親がSOSの声を挙げるのはこんなに難しいのか」
「具体的にどういう支援があれば、親が本当に支援されるのか」

Hillの事件を考えたときに、
健康な母親でも自ら支援を求める声は上げにくいのだから、
障害のある母親であれば、もっと挙げにくいだろう、と思う。

本当に支援を必要としている人が「助けてほしい」と声を出せるためには、
何よりも、まず母性信仰で母親を追い詰めるのを止めてもらえないものか。

そして支援をする側の人には、そういう母親の複雑な心理を理解してもらいたいし、
できれば支援する側から迎えに行く支援も、仕事のひとつのあり方として考えてもらえないだろうか。

……というのは、日ごろから考えていることですが、
それをこの事件にかこつけて書かせてもらいました。