強いお父さんを見つけた

とても強いお父さんを見つけた。

障害児に向けられる目
つくね日記(2008年9月3日)


障害のある子どもを連れて世間を出歩くと
どうしても遭遇してしまう周囲のさまざまなリアクションに
親として申し訳なくも感じ、さりとて割り切れなさも感じつつ、
実は自分がたいそう傷ついてしまっている……という気持ちを
他の何にも摩り替えずに、こんなにありのままに言葉に出来るというのは、
ものすごく強い人だなぁ……と。

これほど強い人ではなかった私は、娘が小さな頃、
娘をじっと見る人をどうしても許せなくて、
相手が気付いて目を外すまで、こっちからじっと睨み続けてやる……などという
バカなことをやっては勝手にエネルギーを無駄遣いして疲れていた。

自分が悲しい眼にあったり傷ついたりした時に
その痛みや悲しみを怒りのエネルギーに摩り替えると
悲しんでしまう自分、傷ついてしまう弱い自分から目をそらせることが出来る。
自分の中の弱さを認めずに“強い人”を演じていられる。

子どもが小さな頃の私たち母親仲間は顔を合わせると
外出先で出会った「腹の立つ世間サマ」のエピソードを披露し合っては
一緒に呆れ、腹を立て、思う存分にののしったものだったけれど、
あれは実はみんな

世間サマの無理解や時に一方的に投げ与えられる憐れみに傷ついていて、
その痛みを怒りのエネルギーに変換して分かち合い、爆発させることによって
心の中に閉じこめた悲しみに風穴を開けて、傷を癒しあっていたのかもしれない。

そういう年月を経ることによって
それでも私たちも少しずつ強くなることができたのか、
いつからか外出先で周囲の人の娘の障害に対する不快なリアクションと出くわした時に
「ああ、自分は傷ついたんだな」と受け止めることが出来るようにもなってきた。

怒りに摩り替えて“強い親”をやってしまった時よりも、
傷ついてしまった弱い自分をそのまま認めることができた時の方が
事後の精神的な立ち直りが穏やかで速いこともだんだん学習してきた。

人間が未熟だから、
それが分かってきたからといって、いつもいつもできるというわけではないけれど。

だから
親が強くなくちゃいかんだろ」と思いながら

せめて、ジロジロみないでくれよ、
俺に聴こえるような声でこっちが傷つくよなことをあれこれ言わんでくれよ

俺はハンドルに頭つけて暫く泣きたい気持ちで動けなくなることもしばしば」と
すなおに書けるこの人に、

いえ、自分では気付いていないかもしれないけど、
あなたは柳のようにしなやかに強い。

あなたは実はものすごく強い……と。


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と同時に、

誰もが最初からこういう柔軟な強さを持てるわけではないから
悲しんだり傷ついたりする自分の弱さから目を逸らせていられる時期というのも必要だろうし、

そういう時に一緒に「腹の立った話」を語り合って
互いの怒りを共有し、増幅させて、存分に世間の無理解をののしることのできる仲間だって
人によっては必要で、

それはもしかしたら互いの傷をなめあうことなのかもしれないけど、

そんなふうにして、少しずつ弱い自分を認めることができるようになるのなら、
同じ思いを分かり合える人間同士で傷をなめあったっていいじゃないか、と思う。

そうしていつか、今度は悲しんでいる自分、傷ついてしまった自分、不安でたまらない自分を
ありのままに打ち明けて、その悲しみや痛み、不安を静かに共有できる仲間を得ることができるなら
それもいいじゃないか、と思う。

「ハンドルに頭つけて泣きたい気分で暫く動けなかったよ」と言った時に、
「うん。そういう時って、あるよね」と
 同じ痛みを知っている共感と共に返ってくる言葉って、やっぱり大きいんじゃないかなぁ。