支援サイドから「迎えにいく支援」

ちょっと間が開いてしまいましたが、
天保山のマジックアワーに(8月29日)
「総体として人間を信頼できるか」という問い(8月29日)
の続きのつもりのエントリーです。
(もちろん単独で読んでもらって構わないのですけど。)


障害のある子どもの親の気持ちの中には
矛盾していたり相反する気持ちがあれこれと共存していたり
また、せめぎ合ってもいたりして、
その日その時の出来事や気分によって
その中のいずれかが優位になったり……と流動するものだから、

親の気持ちとはいっても、なんらかの言葉にして説明しようとすると、
言葉になった時点で、所詮はそのうちの一面でしかないものになってしまうのかもしれない……
という思いが私にはいつもあるのですが、

そういう一面として言えば、
自分たちの経験はもちろん、周囲の障害児親子を見ても、
障害のある子どもを抱え込んでいる手をちょっと緩めてみることが
親にとってどんなに難しいか、痛感してきたのも事実。

例えば重心の子供の場合だと、
ちょっとした体の動きや、目つき、表情、そこはかとない気配
他人から見れば嬌声にしか思えない音声やそのトーンから
重い障害を持った子どもの状態や言いたいことを読みとり、
細やかなケアを何年も続けてきた親にしてみれば、

この子が口をこんなふうにしたら喉が渇いた合図だなんて自分以外の誰にわかるだろう、
ウンチが出たらすぐにオムツを替えてもらえるんだろうか、
乱暴な寝返りをさせられたら痛いんじゃないか、骨折するんじゃないか
寒かったら、この子はそれをどうやって訴えるのか……などなど

わずかな時間でも、いざ他人に託すとなれば不安の種は無限に心に浮かんでくるし、
それは親として当たり前の心配であり不安なのでもあり。

だからこそ、いつも思うのは、
親が子どもを抱え込んでいる腕の力をほんのちょっと抜いてみるための何より厄介なハードルは、

手放しても大丈夫だということは実際に手放してみることによってしか分からない
ということじゃないのかなぁ……と。

たとえば、ちょっと前にこういうブログの記事を読んで、


子どもの障害は違っても、
この人が書いていることに私はまったく同感なのです。
(そのマンガ自体はは読んだことがないのですが)

そして同時に

親がずっと傍について生きてやることはできないし、
また、それが子どものためになるわけでもないのだから
親があまり子どもを抱え込まずに支援の手を借りて、
子どももいろんな人の中で揉まれながら成長する方がいいんじゃないか、と
この人が考えることができるのは、

この人が実際に子どもを他人の手に托してみたから
初めてできることでもあるんじゃないのかなぁ、
そこが実は壁なんじゃないのかなぁ……とも思う。

ちょっとだけ勇気を出して
ちょっとだけ親が手を引いて子を他人に託してみれば
たいていは「案外大丈夫かも……」という答えを得ることが出来るから、

一度勇気を持って托してみた人は、こんなふうに
どんどん支援サービスを利用することに抵抗がなくなって、
子も親もどんどん広くゆるい世界に解放されていくし、
子どもの将来もその広さゆるさの中で考えてみることが出来るのだけれど、

逆に「この子は私が」、「私でなければ」と抱え込んでいると
他人に託すことへの不安ばかりがどんどん膨らんでいって、
「ウチの子は親の自分でなければ」の理由が次々に増えていく……という人も
私は結構みてきたような気がする。

そこにある親の心理には、もちろん
子どもの障害に対する罪悪感や、
世間からいつの間にか植えつけられた母性神話や、
これまで頑張ってきたことへの自負心や
本当は心のどこかで「もうイヤだ」と感じることへの自責の裏返しであったり
さまざまなものが複雑に入り組んでいて、

たまたま出会いやタイミングに恵まれてスムーズに支援を利用し始める人もいる一方で、
そういう巡り合わせに恵まれる人ばかりではないので、

そういう、あれやこれやを全部織り込んだ上で、
最初の「えいっ」をなんとか飛ばせてあげること、
うまく最初の「私でなければ」の壁を越える手助けをして、
「ちょっとだけ手を借りる」初体験へとつなげていくことを
支援サイドにも大切な仕事として認識してもらえたらなぁ……といつも思う。

自分から助けを求めてきた人だけを支援するのではなく、

まだ支援の必要を意識していなかったり、意識の上では否定していたりする人の中にも、
本当は人の手を借りて親が少し肩の力を抜いた方がいいケースも沢山あると思うから、

助けを求めない人の中に潜んでいる「もう、ダメ」という声にならない悲鳴を察知して、
また過剰な「この子は自分でなければ」を和らげるためにも、
支える側から迎えに来てくれるような支援が本当は必要なんじゃないかなぁ……と

いつも思う。

私自身が、
危機的な状態の時に向こうから迎えに来てくれるような支援をしてもらったことに救われてきて、
今のそれなりに幸福な親子の生活があると、つくづく実感しているから。