「総体として人間を信頼できるか」という問い

前回のエントリーで
親が人間というものを信頼するところからし
子の世界も親の世界も、子の可能性も親の視野も広がらない……と、
ずいぶんエラソーなことを書いた。

重症児だから家族とだけの小さな世界で生涯を終えるのが幸せだとする
”Ashley療法”の背景にある思い込みは間違っているということを
何よりも言いたかったのだけど、

重い障害を持った子どもの親が人間を信じるということは、本当はとても難しい。
それは私自身にとっても、実はとても難しい。

自分は総体としての人間をどこまで信じることが出来るのか──。

障害のある子どもの親になるということは、
生涯、目の前にこの究極的な問いを突きつけられているということなんじゃないか……と考えることがある。


私たち親子は、それなりに幸運な専門家との出会いにも恵まれて、
今の私は一定のところまで娘を他人に託すことができる。
その程度にまでは人間を総体として信頼できているのだと思う。
そして、そのことは娘にもプラスに働いていると思う。

「お母さん、ミュウはもう1人で生きていけるだけ成長しているよ」と
長い付き合いの看護師さんが言ってくれたのは、もう何年も前のことだ。

親が親として、ここにこうして存在していてやれて
定期的に娘の愛情タンクをいっぱいにしてやれる限りにおいて、
私たち夫婦も娘はそこまで成長してくれたと考えている。

でも、そこに「でも……」がくっつかないわけではない。

もちろん、今の信頼はある長いプロセスを経て少しずつ築かれてきたものなのだけれど、
それでもなお時に大きく揺らいでしまうこともあれば、
裏切られた思いで親も子も傷つかなければならない経験だってないわけじゃない。


自分は総体としての人間をどこまで信じることが出来るのか──。

自分の老いを意識するようになってから
この問いを切実なものとして自問してみることが増えてきた。

それは畢竟、

自分はこの人間の世の中に娘を託して死んでいくことが出来るか。
総体としての人間を信頼して、娘を残して死んでいく勇気が自分にあるか──

という問いなのだと思う。


自分が直接世話をできる能力を失ったとしても、せめて何かがあった時に駆けつけたり、
最後の砦として、親として、ただそこに存在してやることすら出来なくなる時に、
それでもこんなにも非力な我が子を「よろしく」と託すことができるだけ
自分は人間というものを総体として信じられるのかどうか──。

障害のある子どもを持った親が問題意識を持ってものを考えたり、
社会に向けてメッセージを発したり、さまざまな社会活動をしたり、
なんらかの行動をしないではいられないのは、
もしかしたら、この問いへの答えを自分自身の人生を通して
探し続けているんじゃないだろうか。

そして自分自身の人生が終わりに近づいてきたことを実感する時に、
この問いにYESと答えることができる人だけが
子どもを残して死んでいくことが出来る。

YESと答えられない人が子どもを連れていくんじゃないだろうか。


今の私には、まだ答えが出せていません。

ただ、今のところ、
心のどこかに信じたいと願っている自分がいるんだろうな、とおぼろに感じています。

だから自分はいつもこうして言葉を探しているのだと思うし
私に何が出来るというわけでもないのに
Ashley事件に見られる重症児への誤解や無理解を見過ごしておけないのも、
それをきっかけに英米のニュースを読んでは心に点滅する危機感の赤ランプを
こうしてブログで発信しないではいられないのも、
基本的には人間というものを信じていて、
娘のためにもこの先も信じたいと願っているからじゃないかなぁ、という気がするから。


障害のある子どもの親たちは、きっと
自分の生涯を通じて、それぞれ自分にできるやりかたで答えを探している。

みんな、NO と答えたくて探しているわけじゃない。

1人でも多くの親がYESと答えて、子どもを托し、安んじて死んでいける世の中であって欲しい。