医療の理解度のギャップ

(この数日、コメント不可にて非常に個人的な体験について書かせていただいております。)


父が突然人工呼吸器を装着する事態が起こってから
この3日間で考え続けていることの1つに、
家族と医療サイドとの理解度のギャップと
家族間での理解度のギャップをどうやって超えたらいいのか、
という問題があります。

今日、母と話していて、本当に面食らってしまったのですが、
母は、人工呼吸器の仕組みが全く分かっておらず、
人工呼吸器をつけるということは気管に管が通されるということだという事実を
まるで知らなかったのでした。

考えてみれば、その“医療の現実のむごさ”をぼやかして
医師の説明は「呼吸を助けてあげる」という表現だったのかもしれませんし、
人工呼吸器の仕組みなど知らない人のほうが実は多いのかもしれませんが、
無意識のうちに「誰でも知っている」と思い込んでいた私は心底びっくりして
改めて理解度のギャップという問題の深刻さを痛感したのです。
医療サイドと患者家族の間でも、家族の間でも。

それを思えば、
呼吸器装着直後の父に意識があったことに母が私ほどの衝撃を受けなかったのも
「挿管を知らなかった」からだとすると、しごく当たり前の話です。

「中心ラインをとらせてもらいました」という説明が意味することも
きっと母は知らないのだと思います。

そして、あの時に
「なんで眠り薬なんだ。麻酔をしてあるんじゃないのか」としきりに言っていた兄も、
挿管については知らず、ただ首の付け根のガーゼのことを考えていたのかもしれません。

一方、私にとって気管挿管・人工呼吸器という言葉は、
数年前に腸ねん転の手術室から戻ってきた娘の喉の奥に赤く段々になって続いていた
無理やり通した管がつけた無残な傷跡。今でもありありと浮かぶビジュアルな記憶です。

ある特定の医療についての理解度はその人の頭の良し悪しや物知り度とは無関係に、
それまでのその人と医療との距離によるものなのではないでしょうか。

考えてみれば、
気管挿管だ中心ラインだ敗血症だガンマグロブリンだのと聞いて
わかってしまう我々夫婦の方が
そういう場面に幾多も遭遇してきた娘との21年間を背負って
妙な経験知を生半可に身につけているだけなのです。

しかし、どのように生じたものであれ、ギャップはギャップとして存在する限り、
関りあう人間の間にトラブルを生みます。
家族間でも、家族と医療者の間でも。

たとえば医師の説明から何時間も経ってから、ふっと兄が言うのです。
「わからんな。胃の手術をしたんじゃないのか。なんで肺炎の話になるんだ?」

私は思わず絶句し、次いで、
全身麻酔で手術を受けた患者の術後の管理で
肺炎が高リスクの1つだというのは常識だろう、
と思わず口をついて出そうになりました。

娘の骨折や腸ねん転の手術後の痰との闘いを通じて
体力の低下した人間が寝て過ごすことの恐ろしさを身に沁みて思い知らされてきた私は
兄の言葉に初めて「ああ、普通はそこからして分からないのか……」と気づかされた。

そして、これだけはちゃんと説明しておかなければ、と思ったのは、
兄の言葉に医師への不信が滲んでいたから。
そして、それがいわれのない不信であることを私は知っていたから。
兄がいわれのない不信を重ねてくれると今後の父の医療を巡って、
さらに家族間でトラブルにつながりかねないこともこれまでの体験で分かっていたから。

しかし一障害児の母親が専門用語を使わずに日常の言葉で試みる説明が
仮にそれほど的の外れたものでなかったとしても
それが何がしかの説得力を持つためには、
私の知識と理解力とに対して相手が予め信頼してくれている必要があります。

知人の医師に電話で聞いたら「抗生剤さえ効けば呼吸器は外れるといっていた」と言われても、
でもそれは、あくまでも母と兄の理解による説明を聞いた医師の判断であり、
さらに、呼吸が止まる前の父の全身状態についてのあれこれの検査値や、
既にガンマグロブリンが使われていたことなど話してないだろう、と私は考える。
それでも、私がそれを言ったとしても、
直接情報を持たない医師の言葉の方が母にも兄にも説得力がある。


私が最も大きなジレンマを感じるのは、
本当は個々の医療内容に対する理解度のギャップよりも、むしろ、
医療そのものへの期待度や、医療の限界に対する理解度のギャップです。

元気な頃の父が私の娘の医療を巡って私を責めたてる時がそうであったように、
あまり医療と深く付き合うことなく年を経てきた人ほど
医療に対する過度の期待、どうかすると医療が万能であるかのような過信を抱いていて、
けれども、その過信が大きければ大きいほど、
期待通りの結果が出ない場合には気持ちが大きく対極に振れて、
不信感に結びつきやすいのではないでしょうか。

我々夫婦のような重症児の親は
医療のおかげで今の娘の命があり、元気で過ごしている笑顔があると了解している反面、
医療にはそれほどたいそうなことができるわけではないことも
いやというほど思い知ってもきました。

特に娘のような重心児・者や、父のような高齢者など、
最初から不利な要因をいくつも絡み合わせたハイリスクの患者に一旦コトが起こり、
何かをきっかけに複雑なバランスの一箇所がちょっとでも崩れると、
一つのことに対処する治療はそのまま他のことには害となる……というジレンマだらけの
もはや、いつどこで何が起こっても不思議がない悪いサイクルに巻き込まれてしまう。
ちょうど、今回の術後の父が身体のあっちにもこっちにも爆弾を抱えていたように。

それでも、何かをきっかけに、あるところから、
そのサイクルが良いほうに向かい始めることはあるし、
そうなると人間の身体は不思議なくらい目覚しい回復を見せるものだということも
私たちはまた経験知として知っている。

だからこそ、どんな状況でも諦めずに果敢な試行錯誤の判断を粘り強く繰り返して、
その「きっかけになる何か」を起こそうと努力を続けるのが
現場の医師をはじめとする医療職の人の仕事であり、
また、奇跡を起こすほどのその素晴らしさでもあるのでしょう。

そんな奇跡がいくつも起こされてきたからこそ、
命がいくつあっても足りないような21年間を経て、私たち夫婦に今の娘がある。

しかし、医療が人を救うポテンシャルの妙を真に分かるためには、
その人はそれ以前に医療の限界をまず身に沁みて知っていなければならない。
それもまた、医療を行う側にとっても受ける側にとっても、真実なのではないでしょうか。

だからこそ、今の私は言わずにいられない。

「なんで、この部屋はこんなに寒い。親父が寒いじゃないか」
「いや、よくはわからんけど、低体温にして今は身体の負担を下げているのかも。
ほら、脳を守るために低体温にすることもあるじゃない。
エアコン、勝手に切らない方がいいんじゃない?」

「目をシールで貼り付けてある。かわいそうに。なんであんなことをするのかしら」
「はっきりは分からんけど、ほら、半開きになったりすると
自分で瞬きできなかったら乾燥して目を傷めるとか、
体力が落ちているから、目に感染が起こるとか、
なんにしろ目を保護してあるんだと思うよ」

違うかもしれない。オマエの理解度だってお粗末だと笑われるかもしれない。
もちろん医者じゃない私が正しい答えを出せるわけじゃない。
でも、どこが信じるべきところで、どこが疑うべきところかだけは
さほど間違えていないと思うし、伝わって欲しいのはそこのところだ。

長くなりそうな”非常事態”を、家族がなるべくトラブルなくやっていけるように。
そんなことは不可能だということも、これもまた経験知として知ってはいるのだけれど。

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家族がこんな小さな疑問のいちいちを医師に聞くことはできない。
疑問が次々に沸くような状況では看護師さんも忙しくて、やっぱり聞きにくいもの。
だから、分かりもしない家族の間で
ああだろうか、こうだろうかと当てのない推測を続ける。
そうして、状況によっては、そんな会話が不信の種を膨らませていくこともある。

そんな他愛ない質問の一つ一つに、どこまでも丁寧に答えてくれる
医師でも看護師でもない親切な存在が誰か1人病棟にいてくれれば
患者のたわいない不信も、家族間のいざこざや家族と医療者とのいざこざも、
案外に大きくなる前に芽を摘むことができるかもしれないのに、と思う。