"溜め”から家族介護を考えてみる

前のエントリーで「反貧困――『すべり台社会』からの脱出」を取り上げましたが、

数々の排除によって追い詰められていくと、
もともと“溜め”の少ない人がそれを使い果たし、肉体的にも精神的にも疲弊して
ネガティブに自己閉塞していく負のスパイラルに入る(自分自身からの排除)、

そういう人は自己責任や頑張りが足りないのではなく、
むしろ「自分が頑張るしか」と自己責任を過剰に内在化してしまい、
自分から助けを求めようとも考えなくなってしまうのだ、

“溜め”の違いに眼を向けず「自己責任」だといって切り捨てるのではなく、
せめて「がんばれる」ための最低限の条件整備に援助を……

……とこの本で著者が繰り返し書くたびに、
ああ、これは介護者支援にそのまま当てはまるな、と私は感じました。


この本を読んで驚いたことの1つは
こんなにも多くの人たちが「助けてくれる家族」という“溜め”を最初から持たないこと。

確かに、誰もが家族に恵まれているわけではないし、
家族がいるからといって、その家族が必ずしも助けてくれるわけでもなければ、
ことによっては家族がいるからこその不幸という現実だってあるでしょう。

それならば当たり前のこととして
「介護してくれる家族」や「終末期を迎えに帰る家」という“溜め”を
最初から持たない人も実は沢山いるはずだし、

家族はいても、さしたる“溜め”にはならない……という人だって
決して少なくないはずだと思う。

もともと家族は必ずしも温かく愛し合い支えあうだけの一面的な関係性ではなくて
むしろ複雑な愛憎をはらんで矛盾に満ちた関係なのだし、
家庭が何らかの問題を抱えて家族それぞれにストレスがかかると
平時であれば潜在している家族の中の確執や問題が
そのストレスに炙り出されるように顕在化してくる……というのは
どこの家庭にもありがちなことのはず。

介護によって家庭が崩壊するとよく言われるのは、
おそらく介護そのものが崩壊させるのではなく、
それまでにその家庭に潜在していた問題なのではないでしょうか。
介護負担がそれぞれの家族に与えるストレスによって
平時であれば表面に出てこない問題が顕在化してしまうために
それまで夫婦関係に問題を抱えていた家庭では夫婦関係に、
親子関係に問題が潜在していた家庭では親子に
亀裂が入っていくのではないかという気がします。

家族それぞれが“溜め”をたっぷり持った状態であれば解決も可能な問題が、
長く介護を背負った家族では家族の誰もが疲弊して“溜め”が低い状態で
その問題に直面するしかないために
乗り越えにくくなるという面もあるかもしれません。

家族は本当はそんなに温かいばかりでもなければ、そんなに強くもない。

それなのにテレビや雑誌で介護の問題が論じられる時、
取り上げられるのは決まって「頑張ることができている」家族の姿。
つまり大変ではあっても頑張ることができるだけ“溜め”のある家族ばかりです。

もちろん、頑張れる家族の支援も必要ですが、本当に介護の問題が深刻なのは
“溜め”がないから頑張れない家族や介護者のはずです。

介護の問題が本当にリアルな現実として語られるためには
「誰にも、温かい家族」という神話から一旦完全に離れることが必要なのではないでしょうか。


湯浅氏は社会の“溜め”を大きくして、強い社会を作るためには
人々の支え合いの強化と社会連帯の強化を提唱しますが、

注目したいのは、そこに次のような但し書きがあること。

ただし人々の支え合い・社会連帯は、公的セーフティネットの不在を補完・免罪するための家族・地域の抱え合いではないし、現役世代の社会保険料負担を重くし、引退世代の社会保障給付費を抑制するといったことでもない。

障害者福祉でも高齢者福祉でも、
ノーマライゼーションとか「地域で暮らす」といった美名によって
社会化されたはずの介護は家庭にゆり戻され、
同時に地域でのボランティアの組織化が言われ始めていることを
この言葉からつくづく考えました。

【追記】
その後、こんなニュースがありました。